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アメリカの銃はなぜ無くならないか [社会]

アメリカでは銃の乱射事件があったりして、社会不安がつのっている。なぜこんなにも危険な拳銃所持が無くならないかは、日本から見れば不思議な事だろう。銃所持擁護論など聞いたこともないからだ。

テキサスに住んだことがあり、銃所持を擁護する立場の話を何度も聞いたからこれを紹介しよう。一番説得力があったのは、「銃は民主主義の象徴」だと言う議論だ。

アメリカはご存知のとおり強いもの勝ちの社会だ。しかし、根本ルールとして、「徹底的に苛めてはいけない」ということがある。このルールが守られているのは、徹底的に苛められた人は、死刑覚悟でピストルを使うことが出来るからだ。これが弱肉強食の世の中で人間らしさを保つ原理なのだ。弱いものを自暴自棄になるまで追い詰めたら自分が危ない。おのずと良き隣人であろうとする意識が働く。

金持ちは必ず社会貢献として慈善事業に寄付をする。いい人だという宣伝をする必要があるのだ。日本ほどの悪質な苛めはあまりない。地上げなどといった嫌がらせもいくら暴力団でも危険すぎて出来ないからあまりない。一度脱落した人の社会復帰にもハードルが低い。追い詰めてはいけないと言う意識は社会全体に高いからだ。

修練の要る刀剣や体力のいる拳固などと違って、拳銃は誰が使っても同じ威力を発揮する非常に民主的な武器である。ピストル所持の自由は、どの人にも一様に人間としての尊厳を保つ最後の手段を保証すると言うのだ。

日本では、不当なリストラで職を奪われた人、非正規雇用で差別されている人、いくら働いても低賃金でどうにもならない人など、多くの人が平気で追い詰められている。確かにもし銃があれば、もう少し遠慮するのではないだろうか。

銃所持の自由は合衆国憲法で「A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed」と規定されている。国は人々に強制を与えるものではない。その証拠にいつでも反乱が起こせるように武器を禁止したりしませんよ。といった建国時の姿勢をつらぬけば、銃所持は禁止されるべきではないことになる。これにはもちろん「時代が違う」という反論がある。

もう一つの論点として、すでにある拳銃をなくすことは出来ないという「現実的に困難論」というのがある。もし銃を禁止して、全ての銃を差し出せということになれば、良識のある人は法に従って差し出し、無法者だけが銃を持つことになる。これはあまりにも危険だという議論だ。これも一理ある。

「銃なしで君はどうやって家族を守れるんだ」というのもよく聞く。無法者が家に侵入して来たら、警察が後から来たって手遅れなんだという。いわゆる「戸締り論」で、実際にそんなことが起こるかどうかの問題だが、世の中にはアホな無法者が居るということも確かだ。外国が攻めて来るかも知れないから、福祉予算を減らしてでも、自衛隊予算が要るという議論をする人は、これに同意せざるを得ないだろう。

銃所持擁護論を紹介したが、もちろん日本で銃解禁などと言うつもりはない、アメリカだけでも毎年1万人以上がピストルで死んでいるのだから、代償はあまりにも大きい。民主主義は誰もが最低限の理性を持っているという原理に基づいているが、近年アメリカでも銃規制が支持を得ているのは、中には、そういった最低限の理性すら持たないバカが増えてきて、銃の乱射などが起こるという現実に起因するものだろう。

日本の右傾化 [社会]

ワシントンポストでも報じられたように、日本の右傾化が進んでおり、周辺諸国全てと領土紛争を起こすようになった。憲法を変えると言う勢力が国会の過半数を占めていることも事実だ。社会保障などは後退しているにもかかわらず軍事費だけは年々確実に増えて嘗ての歯止めであったGNPの1%をはるかに凌駕している。たしかに日本の右傾化は進んでいる。

しかし、この右傾化にも限界はある。軍事を強化しても、結局はそれを使えはしないだろう。原発に通常兵器ミサイルを一発ぶち込まれたらしまいだから決定的に弱い。第一、戦争などしたら輸入も輸出も止まってしまい、それだけで日本経済はすぐに麻痺する。トイレットペーパーの不足だけでも大混乱するのだ。

慰安婦なんかいなかったと叫んでも、毎日君が代を唱えても、大阪都や名古屋都を作っても、何等現実の問題は解決しない。非正規雇用は増大するし、医療費は不足する。結局、こういった社会問題を解決する金は軍事費を削る以外に出てくる所がないことはいずれわかる。税金も貧乏人からはこれ以上取り立てようがないから、富裕層や大企業から取らざるを得ない。

右翼的主張はもともと矛盾に満ちたものだから、行き詰まればたちまち馬脚をあらわす。神国日本の考え方からは、安保条約など廃棄して、独自の軍事力で世界征服を目指すしかないのだが、八紘一宇はすでに破綻が実証済みで今更持ち出せない。あまりにも現実性がないことが明らかだ。だから安保堅持が右翼的主張に結びついて、侵略戦争の正当化と並存することになっている。

実は侵略戦争の正当化は日米安保支持とは論理的に相容れない。かつての安部首相はアメリカに言って慰安婦問題を持ち出してアメリカ右翼の代表ブッシュに怒られた。アメリカ人にとっては、あくまでも極悪非道な日本を懲らしめる戦争が太平洋戦争であり、悔い改めた日本が恭順したのが安保条約だ。侵略戦争の正当化など安保条約の下ではあり得ないのだ。「アメリカべったり」が日本右翼の最大の弱点になる。

右翼的主張のもうひとつの特徴は民族という概念で日本人を一まとめにすることだが、これも維持するのは難しい。現実の問題では、大金持ちと貧乏人は明らかに違う。あらゆることに利害が相反する。「たいした違いはありませんよ」という主張はもちろん金持ち側からされるから、右翼は必然的に金持ちに味方する。「財界べったり」が右翼の弱点になる。現実としては格差はますます増大している。

橋下が人気取りに原発停止を唱えたことがあるが、結局は腰砕けで、財界の顔色を見て、電力は足りているのに、大飯原発を再開させてしまった。右翼は「財界べったり」から離れられないのだ。橋下は竹島問題でもミソをつけている。竹島を固有の領土という政府見解から引き下がって共同管理などと言って反発を食った。「アメリカべったり」が出てきてしまったわけだが、実はこれがオール右翼の本音だ。

本質的に問題を解決する能力がなく、「アメリカべったり」、「財界べったり」から離れられない右翼の限界はもう見えているといってよい。

半導体産業の破綻と日本の未来 [社会]

エルピーダに続いてルネサスも破綻し、日本の半導体産業は全滅しつつある。危機に瀕して岩だらけの小島の問題などにかかわっている場合ではない。

破綻の原因として円高による競争力の低下が挙げられているが、これこそ国策の誤りを示すものだ。言うまでもなく為替レートは輸出入のバランスで決まる。日本は輸出ばかりで、輸入する購買力がない。つまり、国内需要が少なすぎるのだ。日本人の給与水準が低く、輸出に見合うような国内消費ができない状態が続いているのが原因だ。

経済は常に鶏と卵で、会社の業績を良くしないと給料は上げられないなどといわれるが、鶏がわにも卵側にも力が働き、相互にバランスが取られるべきなのだ。ところが、日本では連合ができて以来、全くと言って良いほどストライキがなく、給料は経営者の一存で決められる状態になっている。

資本主義の本家アメリカでさえ、ストライキは頻繁に起こり、教員や港湾労働者ではストライキが年中行事になっているし、警官でさえストライキで賃上げを要求する。こういった圧力で企業は経営が苦しくても仕方なく賃上げをする。結果的にアメリカでは20年前と比べて給与水準は確実に2倍になっている。日本ではむしろ下がっているくらいだ。

日本でこの20年一貫して取られてきたのが人件費の削減政策であり、リストラであった。事実、この間伸びたのは、ファミレスにしろコンビニにしろ宅急便にしろ、安いアルバイトを使うビジネスばかりだ。法人税を安くしたから、何の技術開発もなく、人件費を安く買い叩けばそれだけで会社は利益を出せる。そんな環境では、技術開発を軸にすえた会社経営をするのはアホでしかないことになる。

エルピーダもルネサスもいわゆるハイテク産業であり、決して労働集約型ではない。日本の人件費が高いから競争に負けるなどという事はあり得ない。DRAMからNANDへの転換ができない技術開発の遅れが大きい。人件費の削減ばかり追求して、技術開発を怠ってきたつけが回ってきたのだ。

この問題は他の分野にも波及する。家電などの破綻はすでに始まっているし、鉄鋼が破綻するのも遠くないだろう。薬品・化学は地盤が消失しつつあるし、自動車は多国籍企業として日本から脱出の準備をしている。

今、政治が取り組むべきことは、血を流してでも賃金水準を上げることだ。アルバイト搾取会社には潰れてもらい、地道に技術開発する会社を育てて行かねばならない。財界と競合できるくらいの強力な労働運動も日本を救うカギとなる。

自動車保険は必要か? [社会]

世間では任意自動車保険の重要性が強調されている。まちがっても、任意保険なしで運転してはいけないなどと言う人もあるくらいだ。しかし、自賠責保険という保険制度があってこれは車検の時にすでに入っている。なぜ、二重に保険に入らなくてはならないかと言う疑問について書いてみよう。私は無事故無違反でゴールド免許をもっているが、今から書くことは常識的な運転をする人に限った議論だということを断っておく。

任意保険の理由は、自賠責保険は損失を与えた相手方に最高3000万円までしか払わないので、それでは被害者がとても納得しないからだという。しかしもし、それが事実なら自賠責保険の存在がおかしいことになる。判例を調べて見ると、老人の死亡で2000万円、主婦だと2300万円、働き盛りでも被害者に過失があったり、定年までの年数が少なかったりで、大体3000万円に収まっている。だから自賠責の金額設定はそうおかしなものではないのだ。

判例だからといって被害者が満足するわけはないが、逆に任意保険に入っておれば、自賠責保険の査定額に気前よくプラスして、補償をだすことができるかといえばそうではない。金額を査定して、まず、自賠責保険で支払い、たりない分を任意保険が払うと言う仕組みだ。保険会社は、なんのかんのと難癖をつけて値切りに値切る。結局のところ自賠責保険の範囲に押し込み、任意保険は一銭も払わないというのが99%のケースだ。判例に準じて査定すれば当然そうなる。残りの1%のために任意保険があるとすれば、それはあまりにも高価だ。それに、この1%は、酒酔い運転で歩行者を跳ねるなどと言う非常識な運転さえしなければ、避けられるように思う。

障害事故の時もあまり必要とは思われない。友人が交通障害事故の被害者になって、その補償問題に付き合った経験があるが、保険会社の対応はひどいものだ。高い保険に入っているから、、もしものとき、被害者に満足してもらえるかと思ったらそれは間違いだ。保険会社は出費を抑えるために最大限値切る。休業補償にも、後遺症の慰謝料にも難癖をつけて値切る。どこまで値切るかというと、大体総額200万円以下である。なぜこの金額かというとそれは自賠責保険の限度額だからだ。交渉に当たるのは任意保険の会社なのだが、自社は一銭も払わないのだ。逆に自賠責の限度額までは気前よく払う。自分の懐は痛まないからだ。

それでは対物補償はどうだろう?確かに自賠責に対物はないし、事故のほとんどは対物だから、これは有意義かとも思えるのだが、等級の上昇と免責額という落とし穴がある。相手の車にコツンとぶつけたという、良くあるケースでは、修理費が10万円くらいだが、免責3万円が自己負担になる。その上、等級が上がって保険料が1万円も上がる。そしてこれがずっと尾を引くのだから、総計支払いは20万円を超えることになる。サラ金に借りなければ10万円が払えない人以外、保険を使うメリットはない。

確かに対物賠償がもっと高額な場合もある。ぶつけた相手がBMWで大破した場合1000万円にもなるだろう。しかし、そんな事故が、自分が100%悪いということで起こるだろうかと考えて見る。五分五分なら払う必要はない。7分3分なら300万円が必要な金額だ。定期預金を崩しても300万円が払えない人には任意保険のメリットがあることになるが、300万円がなんとか都合のつく人には役に立たない。

それでは、任意保険に入るのを止められるかというと、これがなかなか難しい。事故の相手がヤクザとか、クレーマーの場合、自分で対応するのが大変だ。もう一つは、任意保険に入っていないこと自体が、まるで交通違反を犯したような目で見られることだ。これは保険会社と交通安全協会がぐるになって、作った風潮であるが、かなり根強い。結局は保険会社というヤクザ集団にみかじめ料をむしられているような状態が続いていることになる。

「公共投資」の末路 [社会]

安倍内閣がまたぞろ「公共投資」を持ち出している。過去50年にわたって行われて来た古い古い経済政策の復活である。国が税金を投じてダムや道路を作り、これで建設業が儲かり、資材を供給する会社や、工事に雇用される人たちにも恩恵が及び、経済が活性化されるという理屈だ。

確かに過去には大きな成果をあげた。アメリカは1930年代の大不況をフーバーダムの建設などで乗り切った。しかし、しかし、こういった景気刺激策はカンフル剤のようなもので、何度も繰り返して使っていると、効き目はだんだんと衰えてくる。

近年では、公共投資に使った資金は、マネーゲームにばかり回って実体経済には効果がまったくと言っても良いほどなくなって来ている。いくら経済を緩和して、ゼロ金利にしても、今時何を作ったら売れると言うのか。ヘッジファンドにを活性化するだけに終る。

それだけではない。公共投資が、経常経費の増大を招くことを忘れてはならない。建物を建てたり、道路を作ったりすれば、それだけ毎年の維持費も増えて行く。維持費が多くなれば、それだけいろんな施策をする経費が減って行く。

高速道路はその典型だ。毎年の予算を確保して、どんどん道路を増やして行った。建設優先なら当然維持費をケチってしまうことになる。笹子トンネルの事故はアンカーボルトの劣化によって起こったが、ボルト自体よりもむしろコンクリートの劣化だろう。

問題は10年以上に渡って、打音試験をしていないことだ。アンカーボルトの劣化は叩けばすぐにわかる。事故後あちこちのトンネルで軒並み不良アンカーが見つかっているように、いとも簡単な検査なのだ。これをもやらないくらいに、維持費をケチっていたということだ。

トンネルだけではない。橋も、ビルも、ダムも公共投資の付けは国の予算を圧迫する。なんでも良いから金を使えと言う時代はとっくに終っているのだ。最悪なのは、経済の活性化に役立たない、意味の無い公共投資で、まさにそれがまた始まろうとしている。

これからの日本はどうなるか(2013) [社会]

同じタイトルで去年の年頭にも書いた。読み返して見て、基本的には今年も同じ認識でよいと思える。

違うところは、自民党政権にもどって、変化が加速されたことぐらいだろう。経済では新たにアベノミックスなる極めて古い手口の景気刺激策が現れた。これに期待して株価が上昇しているが、実態経済を反映したものではない。金融緩和しても資金は投機に回るだけで、マネーゲームが盛んになるに過ぎない。

これだけは大丈夫だろうと思っていた家電業界が軒並みの赤字を出している。新興国がそれなりの技術を蓄え、安い労働力で生産しはじめたら価格競争で勝てないのは当然だ。コストダウンで対応しようとするのが間違っている。新興諸国の技術発展は著しい。ルネサスなどの最先端半導体も負けが決定している。自動車産業だってもはや時間の問題だ。

こういった経済状況に対する危機感の裏返しとして、「右傾化」が進んでいる。外交では、歴史の書き換えを強行しようとして世界の批判を浴びた孤立が問題になるだろう。ただ、自民党は批判に敏感で、手加減するということを身に着けた政党だから、オバマ大統領の姿勢などで牽制されるかもしれない。世界の良識に期待したい。

大きな流れとしては、中国やインドなどの人口大国が力をつけて行くことで、これは動かない現実だ。東南アジアの新興国も徐々に技術水準を高めてきている。日本の技術も遅れたものではないが、だんだん差が縮まって行く事は否めない。世界の経済バランスも徐々に変化して行き、アメリカでさえ最大の貿易相手国は中国になった。この動きに取り残されないようにできるかどうかが最大の問題だろう。アメリカの手先としてアジアの諸国と対峙するような馬鹿げた姿勢をとり続ければますます日本が不利になるのは明白だろう。

日本は人口で世界の50分の一しかない。いかなる意味でも大国ではない。こんな国の国民がある程度の生活水準を保つためには、相当の工夫が要る。人口大国が、他国の支配化で発展を阻害されていた隙間に急成長できたのは幸運でしかない。いつまでも続くのが自然だと考えてはいけない。

アジアにあって、付加価値の高い生産を確保できれば、大きな市場に近いことは当然有利に働く。同じ製品でも日本製はちょっとデザインが優れている。少し小型で気が利いている。そんなところを売りにするしかない。今で言う北欧家具や、イタリア靴なんかの位置づけだろう。

付加価値の高い生産の原動力はもちろん高い質の労働力によって生み出される。ところがこの20年、日本がやってきたことは、安い労働力の追求だった。研究開発にはそれなりに力を入れてきた。政府も一部のエリートの育成には熱心だ。しかし、そんなものが大発明につながり日本を救うなどと考えるのは勘違いもはなはだしい。

そもそも日本製品が受け入れられたのは、現場での小さな工夫の積み重ねが功を奏したものだ。同じ、鉛筆削りでも日本製のものは工夫が凝らされていた。アメリカの十年一律のものと違って、毎年新しい製品が使い易くなって出てきた。

他の製品についても同じ事が言える。名も無い現場技術者たちの努力が日本ではどんどん進んだ。ところが、この20年、こういった技術者は切り捨てられ、非正規労働など、賃金が安くなることばかりを追求してきたのだ。賃上げが止まった頃から経済の停滞が始まった。この流れを変えない限り復興の道はないだろう。

これからの日本は人口も減少し、経済などは衰退の道をたどる。右傾化による妙な背伸びが没落を後押ししていくことだろう。破綻への道を突っ走っている日本だが、頼みの綱は経済高揚期に蓄えられた文化的資産だろう。今でも日本の教育水準は高く。民芸の質の良いことは定評がある。食文化の多彩さもすばらしい。こういった文化を失わず、小国とは言え、一定の輝きで世界に敬意を払われる国になれたらすばらしい。

体罰の根幹は高校の制度問題 [社会]

桜ノ宮高校でバスケット部の顧問が暴力を振るって生徒を自殺させたことが問題になっている。橋下市長は右翼らしく体罰を容認していたが、風向きを見て体罰禁止に舵を切り替えたらしい。今度は父兄の意識改革が必要だなどと別の問題にすりかえようとしている。市長としては、このような事件の根幹にある高校の制度を考えるべきなのだ。

桜ノ宮高校バスケ部は全国大会に何度も出場する名門だった。これを率いる顧問教諭は高く評価され、授業の肩代わりを他にさせるなどの特権を持つほどだった。大学にもパイプを持ち、父兄からも「多少のことは」と容認され、過去にも暴力事件を起こしながら問題にされなかった。10年が限度とされる転任も除外された。

これがすでに「異常」だ。家庭科の教師が家庭科クラブをいくら頑張っても、そんな特権は得られない。言うまでもなく高等学校は「中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする(学校教育法第50条)]」のであり、スポーツで記録を出すことは教科のごく一部でしかない。

ところが現実は、スポーツ推薦枠で大学に入れてもらい、大学のネームバリューで一流企業に入れてもらおうとする親の期待に堪えられるのは、この学校では、こういった体育教師以外にない。だから、こういった教師が異常に高く評価され、教育委員会もまたこれを後押ししてきた。進学校には合格者を増やすことで尻をたたき、そうでない学校にはスポーツで名をあげることばかり追求させてきている。

子どもたちには、いろんな未来があり、医者になったり、弁護士になったり、技術者になったりもできるはずだが、一部の学校では、こういった夢は無く、ただスポーツ特待生だけが望みとなっているのだ。非正規雇用が増え、高校を卒業しただけではなかなかまともな職業に就けないような事情がさらに加わっている。もちろん、本当の未来は多彩だ。しかし、受験の偏差値で輪切りにされた子どもたちはそう思い込まされている。親もそんな気になりがちだ。

こうした子どもたちを萎縮させる社会の根幹にあるのは、高校入試での輪切りである。世界を眺めて見ても、15歳の入学試験が日本ほど苛烈な国はめずらしい。アメリカでは高校入試というものがそもそも無いくらいだ。中学入試や高校入試でこどもを選別していじけさせるのはもう止めたほうがよい。高校入試で学力が上がるなどというのは間違いだと断言しておく。

日本でも、新制高校が発足したころは、今のような選別は無かった。私は、京都府の田舎町で育ち、蜷川知事が最後まで高校三原則を守り通して小学区制を堅持してくれたおかげで、高校入試の厳しさを経験していない。のびのび過ごせた小中学校時代は非常によかったと思っている。

小学区制では行ける高校は1つしかないから、高校入試で落ちる心配をする子はほとんどいない。地元の高校は進学するのは30%しかいない「就職校」ということになるが、みんなで「頑張ってこいよ」と受験に送り出してくれた。結果は、東大5、京大5、阪大3だったから、昨今の田舎進学校より良いと思う。 高校入試で選抜することが学力をつけることに何等役に立たないことの証明になるだろう。

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アルジェリア人質事件 --何の努力をしたのか? [社会]

アルジェリアでの人質事件が起こると安倍首相は外遊を切り上げて帰国し、手早く「対策本部」を立ち上げた。すばやい対応をアピールしたつもりだろう。さっそく「人命尊重、人質の解放にできる限りの努力をする」と記者団に語った。

しかし、その後の経過を見ると、「テロとの戦い」が優先され、人質の多くが死んだ模様だ。いったい何の努力をしたのだろうか? 

アルジェリアの政府が、軍事クーデターを引き継いでおり、人命よりも石油プラントのほうが大切だと考える可能性は多分にあったから、日本政府は強硬に人命尊重を申し入れなければならなかったのだが、果たしてそのようなことを行ったのか?

犯人たちが要求していたことは、フランスのマリ介入を止める事だが、このことについてフランス政府と話をしたのか? 一時的にせよ一定の譲歩がなければ決死隊の面々は人質を殺し施設を破壊して自らも死ぬだろう。 要求は呑めないなどというフランス政府に食い下がって説得するのが日本政府の役割だったはずだ。

おそらく、何にもしていないだろう。やったのは「情報収集」くらいのものだ。 こんなことなら対策本部なんかいらない。人気取りのパフォーマンスは止めてもらいたいものだ。ましてや、これで自衛隊法を変えて海外派兵をしやすくするなどとんでもない。今回の事件でも、別に自衛隊が出かけて人質が助かるなどという筋書きができるわけでもない。

不確かな報道によれば、日本人は犯人たちに処刑されたのだと言う。 アルジェリア人に対しては危害を加えず、「探しているのは、マリで俺たちの兄弟を殺したやつら、アルジェリアの資源を盗み出すたつらだ」と言っていた。

アルジェリアの人たちは、日本人を同じ有色人種だと言う目で見てくれていない。 ヨーロッパ人などと同じ侵略者の仲間だと見られているのは悲しい。 ひたすら、金儲けだけに専念してきた国の自業自得なのだから、よけい悲しい

絶えない右翼の内輪もめ [社会]

ネット右翼のヒーロー、小林よしのりと桜井よしこが喧嘩を始めた。昔から日本の右翼は内輪もめが多い。右翼教科書を作る会も分裂した。暴力団右翼は殺し合いまでやっている。その理由は右翼に共通の階級的基盤がないことが本質的なのだが、考え方の流れとして、対立する二つのものが混在している事も大きい。それは「伝統右翼」と「反共右翼」の2つの流れだ。

「伝統右翼」は、日本が唯一の神の国だと信じ、全ての人々が、私心を捨てて天皇陛下に忠誠を励めば、天下泰平であらゆる問題が解決すると主張する。一種の空想的社会主義とも言える。当然、日本の伝統を重んじ、金が全てを支配する現代資本主義には嫌悪を持つことになる。

こうした右翼と思想的に真っ向から対立するのは唯物論の立場を取る共産主義である。実際、共産主義者の言動には右翼の神経を逆撫でするようなものも多い。右翼が持つ現状批判の多くが共産主義によって代弁されるから商売敵でもある。当然生まれてくる共産主義との対立を第一の課題とする右翼が「反共右翼」である。共産主義と戦う現実の力を持つためには資本主義の害悪も容認するし、伝統を軽んじても良いとする。

どこに違いが現れるかというと、端的なのはアメリカに対する態度だろう。「伝統右翼」から見ればアメリカも神の国を汚す夷人でしかないが、「反共右翼」は力を得ることを重視して、決して反米の立場を取らない。

大資本家に対する態度も異なる。こういった金持ちは私利私欲の塊であり、「伝統右翼」から見れば愛国者ではありえない。しかし「反共右翼」は反共の強い味方である資本家は自動的に愛国者となる。

現在の問題としては、TPPに対して「伝統右翼」は売国条約だとして反対するが、「反共右翼」はアメリカに擦り寄る。原発に関しても、「伝統右翼」にとってはは神の国を放射能で汚すことなど許されない。しかし、「反共右翼」は、反共を達成するためには電力資本を助けなければならず、原発再開を主張する。

実際にはこの2つの右翼潮流は混在し、比重のかけ方は千差万別だ。だから内紛が絶えないし、同じ人でも環境によって、ずるずると軸足が動く。原発反対を叫んでいた橋下が原発賛成の石原と手を組んだのはその一例だろう。靖国神社の遊就館は「太平洋戦争はルーズベルトが仕掛けた陰謀」と展示していたが、こっそりこれを削除して反米表現を改めた。

「反共右翼」は支配階級の意向を受けて右翼思想を少し捻じ曲げることになる。そのかわり、支配階級のお気に入りとなり、身入りも大きい。だから現実に力を持ちやすいのは「反共右翼」である。右翼には「反共右翼」への勧誘が常に働いているといってよい。権力に近づくほど「反共右翼」に転化して行く。

二つの流れは常に生み出されるから、内輪もめは決してなくなることはないだろう。


東日本大震災二年目---南相馬の現実 [社会]

東日本大震災から今日で2年目になる。復興とか元気の掛け声はするが、現実はまだ一歩も進んでいない。津波と原発のダブル被害にあった南相馬の状況は特に深刻だ。

南相馬は津波で死者403人、行方不明者1,071人を出した。それだけでも大災害なのだが、不幸なことにこれに中途半端な距離に原発があった。屋内待機を強いられ逃げ出せずに、避難所の人たちは放射線を浴びることになった。身内を失い、避難所に逃れた人たちを見えない恐怖が襲ったのだ。

その二年後、仮設住宅に住む視覚障害者の話を聞いて唖然とした。土地勘のない仮設に移り、外出はヘルパーの助けを借りなければならない。介護保険でヘルパーさんを頼めるはずだが、月に2時間だけと言うことだ。1日ではない。一回1時間が月に二回である。

なぜかと言うと南相馬にはヘルパーさんが足りないからだ。南相馬の人口は30%減った。元気な人たちは、仕事を求めて、また放射線を避けて町から出て行った。残されたのは、他のところで生活を再建する見通しのない高齢者や障害者である。町には高齢者や障害者などの助けが要る人の比率が高くなってしまった。

いくらヘルパーを募集しても、他の町から時給800円のヘルパーをするためにやってくる人はいない。津波で被害を受けただけの町には多くのボランティアが活動しているというが、ボランティアでさえ放射線を怖がって南相馬には来てくれない。だから、ヘルパーの割り当ては月2時間しかないのだ。これが改善される見通しは全く立っていない。それどころか、資金援助さえ削られようとしている。

南相馬の放射線量は市役所で0.3マイクロシーベルト。それでも現実にはかなり放射線量の高い所もある。このことが知れ渡っているから、人も来ない。市街は避難指定からは解除された。やることが逆ではないのか。障害者や、高齢者をしっかりしたサポート体制のあるところに避難させる必要があるのだ。

福島原発の津波で、ひとつはっきりしたのは、原発事故の被害を全部補償しようとすると、とてつもなく金がかかると言うことだ。これは火力の原油コストどころではない。原発が安いというのは、被害にあった人たちを見殺しにして初めて成り立つ議論だ。国や東電は被害者が死に絶えるのをひたすら待っているだけなのだ。

オフショア開発がもたらすもの [社会]

「オフショア開発」という聞きなれない言葉を耳にする。研究開発を外国特に開発途上国でやることだ。

工場の海外移転による空洞化が問題となって久しい。人件費がかかる国内生産よりも海外生産がもうかるということで、企業はいっせいに工場の海外移転をやりだした。おかしなことに、政府はこれに補助金まで出している。何の政策もなく、ただ企業を応援するのが補助だと考えているバカ政府を持った国民の悲劇だ。

工場移転とは技術の移転をも意味する。タイの洪水で部品の現地生産ができなくなったとき、日本の工場で作ろうとしたが、現場技術がなくで、タイから技術指導に来てもらったということがあった。工場移転が技術も移転してしまうことを如実に物語る事例だろう。

空洞化は技術から開発にまで及んできている。設計技術者は海外のほうが低賃金だ。とりわけ、頭数の必要なソフトウェア開発は中国に持っていくことが多くなってきている。オフショア開発の意味するところは、技術開発能力の流出である。

中国の賃金もどんどん上がってきており、あと10年もすれば日本と変わらなくなる。そのときどうなるかと言えば、日本には技術者がいなくなっている。大型の開発に必要な大量の技術者が供給できる中国の優位は動かない。

この10年、日本が行ってきた経済政策はすべて目先の事だけを考え、長期的には自分の首を絞めることばかりだった。結果として、この10年に成功したビジネスはすべて、多数のアルバイトを雇ってそのピンはねを収入源とする業種ばかりだ。

ユニクロも、宅急便も、携帯販売も、ファミレスもすべて、アルバイトを安い賃金で雇うことで利益を生み出す企業でしかない。こういった企業を育成することばかりやって、正社員を主力としてまともにものづくりをやったり、新製品の開発をやったりする企業を圧迫してきた。 あからさまな圧迫とは言えないが、企業は絶えず競争のもとに置かれているのだから、こういった低賃金が生み出す利益に依存した企業を野放しにすること自体がまともな企業に対する圧迫である。

もうかっている会社の社長の言うことばかり聞く政府がこういったことの原因である。 法人税を安くして、消費税に切り替えたりするのは、企業を応援するように見えるが、「安易な企業経営」を応援しているだけで、実は日本の経済活動を長い目で見れば阻害しているに他ならない。

企業は小手先のリストラでは儲からないように、技術開発で利益率の高いものを生み出さねば生きていけないように厳しくしつける必要があるのだ。そうすれば正社員が増え、研究開発も増え、将来への展望も出てくる。もちろん、企業にとってそれは厳しいことだろうが、どの企業もそれに耐えていかねばならない。

今のようにどんどん、低賃金化、アルバイト化を進めていったのでは、全く未来がなくなる。

オリンピック東京召致はなくなった---猪瀬発言の意味するもの [社会]

オリンピックを再び東京に招致するという企画がつぶれた。 猪瀬知事が阿呆な発言をしたことが報道されたが、これは失言ではすまない。知事がオリンピックが何であるかを全く理解していないことを世界にアピールしてしまったのだ。

近代オリンピックはどのようにして生まれたか? 平和の祭典と呼ばれるように、国際的にはいろいろと緊張があっても、人間の本来の姿を理想化するスポーツについては、国境を越えてお互いの尊厳を尊重しようというのがその主旨である。フェアプレイの精神を尊び、お互いに友好的に参加することが一番大切なのだ。だから「オリンピックは勝つことでなく参加することに意義がある」と言うのだ。

創始者が、クーベルタン「男爵」であるIことからもわかるように、オリンピックの精神は、多少現実離れした貴族趣味のところがあり、年月とともに本来の精神は失われて行っている。選手たちはプロ化し、国家間の競争が前面に出てきて、ヒットラ-の発案で優勝国の国旗を揚げたりするようにもなった。しかし、IOCの委員たちはこのオリンピック精神を誇りとしており、単にスポーツバカの集まりが権力者に利用されているという実態の指摘を、最大限に忌み嫌っていることは言うまでもない。

オリンピックに最後に残されたのは「対戦相手を褒め称え、紳士として振舞う」である。これがなければオリンピックは単なる競技会になってしまう。単なる競技会であってはならないと考えるのがIOCだから、猪瀬知事の発言はその意識を逆撫でするものでしかない。

イスタンブールをこき下ろしたり、日本をやたら自慢したりする猪瀬発言は、こういったオリンピックの本質をまったく理解せず、「世界一を競う会」「都市を自慢する会」としか認識していなかったことを明らかにした。これがIOC委員たちの逆鱗に触れないはずがない。オリンピックの東京招致はこれで無くなったと見て良いだろう。

もともとオリンピックの東京誘致は成金趣味そのものでしかない。日本の自治体はどこも財政難で汲々としているが、東京だけはちがう。東京への一極集中が続いており、ほとんど全ての大会社の本社があり、税収が集中するからだ。その実態から言えば乱脈そのものの都政が続いているが、豊かな税収のおかげでまだ破綻が見えない。

銀行を作って赤字を出したり、超豪華な都庁を建ててみたり、無駄遣いを散々やって来た。最後に石原の殿様が思いついたのがもう一度オリンピックをやるというお遊びだ。このお遊びは跡継ぎの猪瀬知事の代でつぶれたが、それは都民にとってはむしろ良いことだろう。オリンピック開催の莫大な資金を別に振り向け、都民のための施策をやってくれと要求していける。

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国民年金と生活保護の比較 [社会]

国民年金の金額があまりにも少ないので、生活保護の方がましだなどと言うことを聞く。単純比較ができる老齢単身者で比べてみると、国民年金が月額65000円で生活保護が63000円となるから、大差はない。40年間毎月15000円払ってこれだから、国民年金に加入するのがバカらしくなるのも、もっともだ。

しかし、話はそう単純ではない。生活保護には制約が多い。家は売り払ってからでないと受給できない。貯金は5万円程度以上はできず、事実上没収。アルバイト収入も実質上没収というわけだ。年金暮らしなら、同じように厳しくはあるが、ちょっとアルバイトをしてその金で旅行するとか、現役時代に買ったボロ家に住んで家賃を浮かすとかの工夫ができる。毎月5000円を積み立てて中古車を買ったりもできる。年金は自由のためにあるといってよい。

実際、農家で自分の持ち家があり、食料は自給できるような人にとっては、月65000円の現金収入は、そう悪い物ではない。もちろんこんな人は生活保護の対象にならない。国民年金は本来そのような人を対象にしている。ところが、現在では不安定な都市労働者が国民年金の対象者になっているから問題が起こる。

一番馬鹿馬鹿しいのは中途半端に年金があることだ。一度でも定職についてしまうと給料天引きで、自動的に年金を払ったことになる。本人だけでなく配偶者の分も合算される。この年金が生活保護レベル以下だと、生活保護の支給対象になるのだが、生保の制約をフルに受けてしまうのだからたまらない。年金も貯金も没収と変わらないことになる。

定職に安月給で10年働き、失業してアルバイト生活が長いなどという人が一番つらい。年金が月6万円。これから家賃や水光熱費も出さなければならない。苦しいから生活保護を申請すると僅か月5000円のために全ての自由を失うことになる。実は日本にはこういう人が多い。生活保護の44%が65歳以上の老人なのだ。 逆に、それくらいなら生活保護なんか受けずに我慢するよと、月5万円の年金で暮らしている人も多くいることになる。

若い人で、年金に加入したことはあるが、今は払っていない人がいるなら、意地でも毎月15000円を払って生活保護以上の年金を確保しておくことを薦める。そうでないと払った分が丸損になるからだ。80才まで生きれば、この低金利の世の中、あらゆる金融商品の中で、国民年金は一番利率が高い計算になる。厚生年金が少しでもあれば、月10万円の年金は何とかなる場合が多い。これから生活保護の受給者が増えるとますます風当たりが強くなり、制約も多くなる。

金額に関しては、家族がいる場合の生活保護が毎月25万円にもなることが話題になることもあるが、これは若い子持ちの人の場合で、年金との比較にはならない。ワーキングプアに比べてかなり高いが、これは、生活保護が単に喰っていくためのものではなく、「生活保護からの脱出資金」を含んでいるからだ。親が貧乏だからと言って子どもが高校にも行けないのでは負の連鎖になる。金額が直ちに余裕になるわけではない。実際、育児と労働に追われる親の場合、賢く買い物をする余裕がなく、生活費が高くもなるのだ。早い話、家で調理すれば安いものでも、外食ならきわめて高い。このあたりは生活を単に金額では比較できないところだ。

ネット選挙で何が変わったか [社会]

ネット解禁で選挙の何が変わったか? 実は何も変わらなかったのではないだろうか。 メールによる投票依頼は相変わらず禁止なので、「ホームページを見る」以外に情報の受け取りようがない。ツイッターもホームページの一種である。情報発信にしても、これまでも候補者や政党ホームページはあったわけで、その意味では何も変わりはない。

憲法は政治活動の自由を保障しているからネット上での政治活動は規制できない。ところが、公職選挙法は選挙運動と政治活動を無理やり区別している。公示前のホームページは政治活動だから自由で、公示後に更新するのは選挙活動だとして禁止してきた。今回、選挙活動でネット解禁になったから更新が公示後も出来るようになったというだけだ。しかし、特別なファンでもなければ、公示後に何度も見に行ったりはしない。

つまり、ネットでは、選挙期間中だけは禁止されていたことが、普段と同じになったというだけである。ネット選挙「解禁」と言えば、普段許されないことが、選挙期間中には特別に許されるかのイメージをもつが、そのようなことは一切ない。暗闇選挙は依然として続いているのだ。選挙期間を短く制限したり、戸別訪問を禁止したり、ビラや文書の枚数を制限したり、している。選挙公報もやたら小さいし、立会い演説会もディベートもない。これらのさまざまな規制が、政治に参加することを罪悪視する風潮を作り出してしまっている。

ブログで選挙に候補者に対する評価や支持表明もあまり見ないし、まして公示後日々更新しての支持運動も少ない。考えてみれば、電話による選挙運動は以前から自由だったのだが、電話で人々が政策討論することなど無かった。 公示前の政策討論は自由だったのだが、そんな手紙を出す人はすくない。日本では政治的に「中立」であることが美徳として押し付けられている。

マスコミもまるで「中立」であるかのようなポーズを示す。五大紙はすべて社説で消費税賛成、TPP賛成を表明しているのだから、読者を騙していることになる。この中立ポーズで、消費税反対、TPP反対の運動を押さえつける役割を果たしているのだ。

今のところ何も変化は起きていないが、自分の意見表明にネットを使う人は増えていく。政党や政治家は、説明責任を果たすと言う意味で、いろんなことを、ネットで書かざるを得なくなるだろう。手軽なツイッターはこういった政治への反応をすぐに示すようになる。今回の「解禁」は、とるにたりないことではあるが、これがきっかけになって、本当の意味での政治活動の自由が広がることを期待したい。

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文化大革命とはなんだったのか [社会]

60年代から70年代にかけて中国の文化大革命というのがあった。当時からよくわからないものではあったが、勢いがあり、日本の大学には、あちこちで造反有理というスローガンが掲げられ、マスコミもこぞって好意的に報道していた。社会党などはもちろん絶賛していたし、自民党訪中団などでさえ、外交辞礼もあっただろうが、賞賛していた。公明党も池田大作が『中国の人間革命』などを出して毛沢東との親近性を自慢していた。一貫して批判していたのは日本共産党だけといってもいいくらいで、そのために日本共産党は孤立していた。

ところが、最近は文化大革命のことはだれも口にしない。当事者である中国政府が黙して語らずを決め込んでおり、北京の「中国国家博物館」の展示では70年代のことがすっぽり抜け落ちている。当時、あれほど書棚を埋め尽くしたのに、日本でも文化大革命に関する書物は見つけるのも難しい。あったとしても、単なる派閥争いで、多くの人が死んだとして、いかにひどいことが行われたかを延々と書き連ねてあるだけだ。それでは、あの熱気はなんだったのだろうか?毛沢東に公然と敵対するような実力者などいなかったのだから、単なる権力争いであるなら、粛清で済んでしまうはずだ。文化大革命については、いまだに何も解明されていないというのが実態ではないだろうか?

中国共産党は上海でインテリや労働者により発足した。孫文が率いる国民党政府に参加し、党内の党として徐々に勢力を拡大していった。しかし、労働者階級そのものが未成熟だったから強大にはなりようがない。孫文の死後、右派の蒋介石に弾圧され、長征と称する逃避行をよぎなくされた。この中で、さらに勢力は減少したのだが、長征中に、農民に依拠した戦略を樹立するようになったことが大きい。

中国の99%を占める下層農民は地主と領主の収奪にあって、真から飢えていた。展望もない破れかぶれな農民反乱が何度も起こっているくらいだ。毛沢東たちは、この貧農たちに地主から土地を取り上げる反乱を提起し、それを正当化する政府の樹立を訴えた。この戦術転換が功を奏し、共産党は支持を拡大していった。農民が持つエネルギーに方向を与えたのだ。

戦闘に負ければ撤退してどこかに行ってしまう国民党軍と異なり、日本軍の支配地域となっても踏みとどまりゲリラとして頑強に戦ったから農民の信頼を得た。日本軍が敗退し、国共内戦となった時には、たちまちのうちに中国全土を支配するようになり、中華人民共和国を成立させることとなった。だから中国革命はプロレタリア革命ではなく農民革命だということになる。

革命後、農地解放を行い、多くの農民に土地を与えた。農民は歓喜して畑に出た。中国共産党の戦略では、これで大いに農業生産が高まり、都市労働者も生活が安定して工業化が進むと踏んでいた。労働者が増えて、社会主義建設が始まる予定だった。「大躍進」と銘打つ計画を高々と掲げた。

ところが、農業生産はいっこうに高まらない。あり得ないことなのだが現実だった。当初は、天候不順のせいにしていたが、何年たっても変わらない。「大躍進」が失敗だったとも言えないので統計データの改ざんまで行われたようだ。人民公社で集団作業を行うように強制したりもしたが同じだ。

飢えた農民が望んだことは「生きさせろ」であり、「自給自足させろ」であった。農地を手にして自給自足ができるようになれば、それ以上は望まない。野良に出るのに晴れ着はいらない。物見遊山をしたいとも思わない。自分たちが食える以上の物を生産する必要がどこにあるのか?

毛沢東にとって貧農はもっとも信頼が置ける階層だ。彼が呼びかければ、手に手に鎌をもって命がけで立ち上がった。増産を呼びかけて通じないはずがない。国家権力のすべてを手にしていた彼に届く報告は、増産が順調に進んでいる、人民公社は成功していると言ったものばかりだった。ところが、結果は無残なものだった。これでは社会主義建設はおぼつかない。

農民はプロレタリアートではなく、おのずと保守的な反動的ともいえる限界性を持っている。工業化のために必死になって働いたりするはずも無い。しかし、毛沢東にはそれが信じられなかった。戦略方針は正しく、生産現場は常に正しい。だとすれば、彼と農民の間に問題があるに違いないと見込んだのである。誰を見ても異論を唱えず、彼を賞賛するものばかりなのだが、その中に「資本主義の道を歩む一握りの実権派」がひそんでいて、それがすべてを妨害している。

毛沢東は生産現場の人たちに「資本主義の道を歩む一握りの実権派」を見つけ出して戦うことを呼びかけた。魔女狩りが始まった。共産党の中堅幹部が次々と槍玉にあがった。そのやり方を批判する中央幹部も批判された。それは民衆の鬱憤晴らしでもあった。怒りは、役人だけでなく、何も生産しない学者や技術者にも向けられた。工業生産も科学も10年以上の停滞を見た。

文化大革命で一番不可解なのは林彪事件だ。文化大革命を推進し、毛沢東の後継者と指名される副主席にまでなった林彪がソ連に亡命しようとして墜落死した。毛沢東を暗殺しようとしたとの罪状が公式にあるが、張聶尓の研究によると、これは違う。後継するものとなれば、文化大革命の始末をつけねばならないと考えるのは当然だろう。いつまでも実権派の摘発ばかりやっていたのでは何も進まない。富民国強への転換を図ったのだが、4人組に阻止され、追い落としを受けたのが事の真相だとする推理だ。これは説得力があると感じる。

結局、この騒ぎは毛沢東の死去で沈静化した。4人組が力を失えば、富民国強への転換は自然の流れとなる。問題の所在が単に実権派の陰謀などという単純なものではないことは誰でもわかる。農民の自給自足から工業化への転換は単純に発展という形で行えなかった。中国共産党の新路線は、たぶん農民を見捨てることだっただろう。農業生産はそのままで食料を輸入し、外国資本を受け入れて工業化を進めた。食い扶持を減らすため一人っ子政策が進められた。低賃金労働で外資を稼ぎ、食料を輸入しながらではあったが工業化は進んだ。いまや北京は高層ビルが立ち並び東京と変わりがない。工業生産は近々品質面でも日本を追い越すだろう。

しかし、一歩農村に出ればいまだに自給自足から変わっていない。格差がとんでもなく拡大しているのだ。格差といっても、都市と農村の地域格差であり、アメリカのような都市スラムが発生しているわけではない。高い生活水準を求めて、人口はどんどん都市に流出しており、農村では過疎化が進んでいる。一人っ子政策の帰結として、驚くばかりの高齢化が間近にせまっている。

世界最大の人口を抱える中国の危機は世界の危機でもある。では、どうすればいいのか?その答えはない。中国の抱えている問題は、単に政治体制の問題ではないことがわかる。クーデターが起こって別な政治体制になったところで、問題は解決しない。翻ってみれば、「高齢化」「格差」はそのまま日本にも当てはまる。

世界はなかったことにして口をつぐんでいるが、実は文化大革命を引き起こした問題を今も未解決で引きずっているのだ。人は食べなければならない。しかし、農業の生産性は他の産業のように高くなりようがない。当然のように格差が生まれる。食料を輸入してごまかすことはいつまでも通じないだろう。やがて食糧危機が世界を襲うのか、工業生産に停滞をもたらすのか、世界の経済が行き詰まりを迎えることになるだろう。


オリンピックはどうなるか? ----2020年の日本 [社会]

猪瀬発言でオリンピックの東京招致はなくなったと見ていたが、トルコの政情不安で形勢が変わってしまった。IOCが持つ貴族趣味のプライドは、政情不安に弱くまた金権にも弱い脆いものだということが露見した。安倍首相の「汚染水は完全にコントロールされている」などというウソにころりと騙されるあたりは、選考する側の底の浅さを示している。

決まったものはやるしかないのだが、2020年の東京オリンピックというのは、いったいどんなものになるだろうか? 高度経済成長のど真ん中にあった1964年のオリンピックとは異なる。1964年のオリンピックは、高速道路の整備が進み、カラーテレビの普及が進み、経済がさらに加速する効果を産み出した。柳の下のドジョウを期待するのは情勢が違いすぎる。

TPPで全国津々浦々の農業は壊滅の憂き目にあっているだろうし、消費税で家計はなおさら厳しくなっている。国の財政赤字は極限に達しており、福祉は切り捨てられて日々の暮らしにあえいでいる人も多くなるだろう。人口そのものが減少していし、高齢化は極限に達していて、オリンピックを見に行く元気も無い。中には元気な年よりもいるだろうが、年金が行き詰っており、それどころではない。

たのみの綱は外国人観光客だが、7年後も福島の汚染水は増え続けている。よりによって、放射線がある日本に遠くからやってくるだろうか? 汚染水や放射性廃棄物は行き場がなくて積み上げられたままだろう。期待できるのは経済成長した中国からの見物客だ。東京は略体漢字とハングルがあふれることになる。今でさえ、日本の観光地は中国人で支えられているのだ。

一般の観戦はもっぱらテレビと言うことになるし、オリンピックの財政の最大収入はテレビ放映契約料だ。しかし、7年後果たしてテレビが健在かどうかも定かではない。インターネットを通じてのオリンピック委員会からの配信と言うことになれば興行収入はなくなる。開催国の財政負担は重い。

政府はこれまで流用を非難されてきた福島・東北jの復興予算を、オリンピックを名目にして、大手を振って土建工事に振り向けるだろう。公共投資で経済振興をする目算だが、いまさら高速道路を整備しても効果なんかあるはずがない。カラーテレビのようにオリンピックを機会に普及するようなものもない。おそらく、財政負担だけが残る悲惨なことになるだろう。

大阪都は頓挫---大阪はどうすべきか [社会]

堺市長選挙で大阪都構想の是非が問われている。投票前の世論調査で大阪都構想に賛成が19%に対して44%が反対と表明した。これで大阪都構想は頓挫したと見て良いだろう。市長選挙の結果はまだ出ていないが、これでは住民投票が通らないのは明らかだ。

大阪を都にすれば東京並みの繁栄があると考えるのが安直過ぎるが、区にもっと権限を持たせてきめ細かい住民サービスを計るなどは、なかなか良いことではないかと思われた。きめ細かい住民サービスには、それなりの費用がかかる。果たして無駄遣いを減らすだけでその費用が生み出されるものなのか。

東京都の財政比較をして見て驚いた。一人当たりの税収が東京は大阪の5倍もある。これはちょっとやそっとの工夫では追いつかない。区に権限があっても肝心の財源がない。東京都なみの立派な区役所を作っただけで予算が無くなってしまい、きめ細かいどころか住民サービスは皆無になってしまうのがオチだ。大阪都なんて最初から無理なのだ。東京のまねをしようとする発想が悲しい。

なぜ、東京がこうも金持ちなのかと言えば、なんでもかんでも東京への一極集中が起こっているからだ。かつて大阪に本社があった大会社もすべて本社を東京に移してしまった。法人税は全部東京に行く。これが、大阪に「都」という字をつければ良いなんてことではないのは明らかだろう。すぐに効果が現れる大阪再生の妙案はないが、長い目でみた基本的な姿勢が重要だと思う。大阪は東京のまねをしすぎた。中央政府の意向になんでも従ってきた大阪のやり方が間違っていたのだ。

大阪は、かたくななまでの独自性を発揮しなければならない。石原と組もうなんて最悪である。起死回生をねらう大阪に必要なのは、東京に徹底して反発する反骨精神だ。東京が巨人なら大阪は阪神だ。東京が原発再稼動なら大阪はあくまでも原発廃止だ。東京が消費税を上げるなら、大阪は徴収に一切協力しない。

これは単なる冗談ではない。第二の都市は都市的野党でなければならない。ことあるごとに、東京と対立していくことで、大阪独自の文化が育ち、東京本社だけでは西日本を制することが出来ないと認識されるようになる。国が、なにか施策を考えるとき、東京はいいが、大阪はどうだろう?と考えるようになる。東京の付属物のような大阪に存在の意味は無い。かつての商都大阪は、江戸の武家社会と対立することで生まれたことを忘れてはならない。

大阪都はなぜ失敗したか----大阪5郡案の提案 [社会]

堺市民に総スカンを食って、大阪都構想は破綻した。その原因を考えて見よう。もともとは、大阪を東京並みのにぎやかな町にしたいという橋下の思いつきからでたことで、「都」にすれば良いという安直な発想だった。都と府のどこが違うのかを考えて見れば、都の中には大きな市がなく、区があるということに気が付く。だから、大阪も市を廃止して都の直轄にすればよいと考えたのだ。

ところが、東京と大阪は構造がちがう。東京はバカでかい23区があり、あとは小さな市ばかりなのだが、大阪には堺、大阪と政令都市が2つあるし、豊中、東大阪、高槻も中核市になっている。これらの大都市はある程度、府から権限を移譲され、独立した施策ができることになっている。これが、大阪都にとっては大変目障りになる。大阪市を解体してしまえば、堺市が大阪府最大の都市となり、しかも政令都市としての権限を持っている。

そこで、堺市長選挙で堺市の解体をせまった。大阪都構想は大阪市では一応、受けが良かったようだが、堺市民からは批判をあびた。堺は大阪のためにあるのではない。同じようなことが、歴史上でもある。日本はかつて「大東亜共栄圏」構想を打ち出したことがある。中国だ日本だと拘っている時ではない、いまや欧米に対抗して「大東亜共栄圏」を作るときだと中国の解体を迫った。日本国内では好評だったが、当然中国では全くの不評だった。

東京と大阪では地理的条件もちがう。東京23区は丸い形で半径10km圏に全体が大体おさまる。ところが、大阪・堺特別区になると、いびつな形になり大阪府庁から半径30kmまでも広がってしまう。小さな生活道路は市道なのだが、区道というのはないので、都道となり、30kmも離れた都庁の管轄になる。きめ細かな行政サービスなどは期待することもできない。

東京都が23区を直轄にしてもやっていける一つの条件が、こういった地理的環境にあるのだが、もう一つ重要なことは財政力だ。東京は一人当たりの税収が大阪の5倍もある。驚くなかれ、なんと5倍だ。これは、一極集中で、ほとんどすべての大会社の法人税が東京都に入るからだ。この財政力にものを言わせて整備している東京都の区役所機構のまねをしたら、大阪はそれだけで財政を使い果たしてしまう。行政サービスに廻す金などなくなる。 だから「都」になったら住民にどんな良いことがあるのかを具体的には全く示せない。

橋下演説では泉北ニュータウンのリニューアルを例に出して、これは堺市ではできない。都にしてワン大阪でやる必要があるなどと言っていたが、市が府営住宅に手を出せないのは当たり前だ。これは府がやるべきことであり、堺が大阪特別区になることとなんの関係もない。市役所ではできないことは、区役所ならさらにできないだろう。

このように、大阪都構想には最初から無理があり、失敗して当然のものではある。だとしたら、今のままが一番良いのだろうか?府県、市町村といった二段構えの地方自治が曲がり角にきているのは事実だ。その昔、多くの自治体が村であったころに今の制度はできた。高等学校や保健所、病院の配置など明らかに村の行政能力を超えたものを扱うために県がおかれた。大都市が発展した今日、府県が行ってきた行政の多くが、市でもできるようになっている。こうした二段構えの行政が邪魔になるのは当然とも言える。

二段構えの弊害を払拭するための方策としてならば、大阪都構想はむしろ逆だったのではないだろうか。地理的、財政的条件から言えば、大阪府の方を解体したほうが良い。大阪府を5つの政令市、中核市のもとに5郡に分割し、府のすべての権限を郡に移管する。大阪府は5都市連合として運営することになる。5郡はいずれも中心となる大都市を持っており、独自性を発揮した行政をすすめることができるし、住民に対しても大阪府よりも、こまやかな対応ができるようになるだろう。郡をまたがるプロジェクトも、府が下手に介在するよりも郡どうしの直接交渉によるほうが早いのではないだろうか。

橋下氏に大阪府を解体するという発想がなかったのは、彼が最初に大阪府知事になったからであり、もう一つは、住民サービスよりも、むしろ都市から資金を吸い上げて、大プロジェクトに使いたいという志向があるからである。5郡に分割した場合、大工事のための資金作りは協議によらなければならないから、府への吸い上げよりも慎重な検討が必要になるのは間違いない。しかし、それは土建屋ばかりにもうけさせる箱物行政からの脱却には、むしろ好ましいものと言える。


タイで働く若者 [社会]

タイに出かけて働く若い人が、かなりいるらしい。高い技術が学べるわけでもなく、賃金水準ももちろん低い。タイ政府の移民政策で就労許可は、月60000バーツ以上でなければ得られない。だからこれ以上の給料が保障されているのだが、それにしても日本円で言えば18万円だから、大卒なら高くはない。

理由は、仕事の質だという。タイの大卒サラリーマンの賃金は30000バーツ位だからその二倍。つまり、最初から部長級以上の仕事をすると言うことになる。タイに進出した日系企業は、工場を作り、タイ人の労働者を雇って生産するが、こういった生産を取り仕切る人材が必要だ。

多くの企業が、駐在員をタイに送りこんでいるが、会社にとってはこの経費は大きい。本社での給与のほかに、出張手当や渡航経費がかさむ。駐在する人の社内でのキャリアパスを考えると、2,3年で帰国せざるを得ない。だから現地で日本人を採用できればありがたいのだ。日本式の社内コミュニケーションを心得ていることが条件になるから新卒よりも、少し日本での勤務経験があることが望まれる。

日本におれば、20代なら、上司の指示にしたがって、仕事をこなし、卒なくこなすことで、上司の信頼を得ることばかりが求められる。リーダー的性格の人は、上司と衝突してはじかれるのがおちだ。しかし、タイなら、最初から、何百人もを使って生産を実現する管理職としての実力が求められる。これが、タイでの就職の魅力だそうだ。日系企業でない場合も普通の二倍の給料だから、それなりに責任ある立場で働くことになる。

20代で部長級なんてことが日本国内であるかというと、実は多くある。国家公務員が伝統的にそうだ。中央省庁のエリート職員になると、たいてい、県などに出向して、20代で部長などを経験する。ただし、ここでは、厳しく実力を問われるのではなく、実際の仕事は次長にやらして、「よきにはからえ」と、鷹揚な姿勢を取る事を学ぶだけだ。

優秀な部下を信じてすべてを任せるというのが、日本の管理職のあり方だ。部下を叱咤激励して、仕事を進める厳しい競争を強いられたら、それはもうエリートから脱落した名ばかり管理職である。なにもしない人が、優れたリーダーとして尊敬される。こういった不思議な構造が日本社会にはある。

30年後の農業 [社会]

TPPで日本の農業は壊滅するといわれている。確かに、今でさえ、重労働のわりに実入りの少ない農業は、後継者難であり、農業地帯は過疎化している。農地で働いているのは高年者ばかりだ。これでTPPの追い討ちをかけられれば、現在の農家が消滅して行くことは間違いない。

さて、それでどうなるか? おそらく多くの農地は耕作放棄され、荒地になっていく。都市近郊の農地は住宅地に転換されるだろう。しかし、農地の多くは都市近郊ではない。工業団地化の計画はどこでも起こるが、もう、日本は工場が次々に出来るという状況ではない。工業団地は売れ残ることが目に見えている。

使い道のない農地の価格がどんどん下落して行く。あるところまで農地が安くなると、転換点がある。人間は食わなくてはならない。だから、農業産物には常に需要があり、農地が極端に安くなれば、会社による農業生産が成り立つようになる。農家は壊滅するが農業は「再生」する。

農業会社が立ち上げられ、大資本が参入して超大規模な農業経営が立ち上がる。バス3台分もあるような大型機械が地平線の向こうまで一気に耕すようになる。日本が狭いといっても、地平線は8kmくらいだから、十分にこういった情景は可能だ。農業の生産性を上げるためには、こういった省力化を行い、一人当たりの収量を上げることが必要だ。土地が極端に安ければこういった資材に資金を廻すことができる。農業会社の社員は多く、こうした超大型農機の開発、設計に携わる。

農機具の運転は派遣労働者だ。高度にコンピュータ化されているから、運転そのものは無人で、やることは誘導と監視だけだ。道路工事の現場で旗を振っている人のイメージだ。キャベツの収穫とか、やはり人間の手が必要な仕事もあるが、これは低賃金の日雇い派遣になる。収穫は一時期だし、天候にもよるから、常勤ではありえない。農業で食っていけなくなった人々が都市に流れ込み、失業者は多いから、労働力が不足することはない。

明日の天気が確定するのは、真夜中ころだから、新宿あたりの夜中は、職を求める人が集まる。手配師が、選別した労働者が、ぞろぞろとバスに乗り込む光景があちこちに見られる。農地まで夜行バスが運行されるのだ。明け方農地につき、一日、キャベツを収穫して、またバスに乗り込み、夜中に東京にもどり、その日の日当をもらう。明日の仕事はまた、天気次第だ。キャベツの収穫には多少選別の知識があったほうが良い。「農業ヘルパー二級」なんかの資格を取っておくことが、強く求められる。工場などは海外移転してしまっているから、ハローワークではこういった資格習得の講座を勧められる。

省力化で収穫をあげるためには、除草剤とか化学肥料は必須だ。農業会社は、政治献金を積み上げて、規制緩和で、こういった農薬の使用をほぼ完全に自由にしている。そのため、あちこちで健康被害が出ているが、もちろんこれはマスコミでは報道されない。こういった政府データは秘密保護法に抵触するかもしれない。特別秘密に指定されていそうなことは危なくて、報道できないのだ。なけなしの賃金も、消費税が30%になっているから、あまり購買力がない。

夕暮れの畑に立って空を見上げながら、農業日雇い人はつぶやく。「ここで昔、自分の畑を耕していたんだ。
あれは、夢だったのだろうか。」






帝国主義論と世界の未来 [社会]

19世紀末から20世紀にかけて、世界は帝国ばやりだった。大英帝国、ドイツ帝国、フランス帝国、ロシア帝国、大日本帝国といった国々が互いに軍備を競い、属国の支配をめぐって衝突を繰り返していた。戦争の被害が最も激しかったのは庶民の生活で、働き手を徴兵され、肉親を戦争で失った悲惨な人々が続出した。なんでこんなことになるのか?どの国も戦争国家になってしまうのはなぜだろう。この疑問に回答を見出したのがスイス在住のロシア人イリイチ・レーニンだった。

 産業革命以来、工場生産が発展し、多くの人々が労働者として生活するようになった。しかし、労働者の賃金は決して労働によって生み出された商品の価値を超えることはない。だから購買力は常に十分でなく、生産された商品は必ず過剰になる。デフレが必然であり、リストラが始まる。商品の価格破壊が進行するが、労働力そのものも商品であり、賃金破壊が生活におそいかかる。この結果さらに商品は売れなくなる。このような資本主義の末路はマルクスによって解明され、社会は破綻を迎えると理論付けられていた。しかし、実際には崩壊は起こらなかった。相変わらず労働者の生活は苦しかったが、賃金破壊は際限なく進むのではなく、ある一定の低い水準を保った。

 発達した資本主義生産はより安い原料を国外に求め、商品を国内に売りさばくということで破綻を回避したのだ。だから発達した資本主義は必然的に外国に勢力を拡大する必要があり、軍事力で国外に進出する帝国主義に転化せざるを得ない。多くの国々が帝国主義に転化すれば、属国の支配権を巡って必ず対立が起きる。このような世界規模の戦争こそが資本主義の行き着くところである。帝国主義戦争で資本主義は自滅して行く。帝国主義戦争で負けて弱体化した政府を倒すことこそ労働者国家を立ち上げるチャンスである。こう考えたレーニンはロシアに戻り、理論どおりにロシア革命を成功させた。

 その後世界はどうなったか? 帝国主義戦争による資本主義の破滅は起こらなかった。社会主義国の出現でその存在自体がおびやかされることになった資本主義は、やりたい放題ではなく、節度を持った搾取にする必要を感じ出した。8時間労働制や労働組合を受け入れ、社会保障制度など、ある程度社会主義的な施策が導入された。資本主義は、こうした社会主義的施策を受け入れて、破滅を回避したのである。計画性を取りいれ、経済刺激で恐慌をさけるといった手法もとれるようになった。しかし、資本主義の本質は変わっておらず日本やドイツなどは相変わらず帝国主義的侵略を続けた。

 様相が変わって来たのは、侵略される側の国々での抵抗運動が力を持ち出したことである。侵略している帝国主義が末路をたどっているとすれば抵抗運動には未来がある。自然発生的な抵抗が、理論的展望を持った共産主義勢力が荷担するようになると、侵略もだんだんと楽なものではなくなってきた。賢い資本主義国は露骨な侵略をやめてむしろこれらの抵抗運動を支援する側に回るほうが市場の獲得には有利だと判断するようになってきた。

 こうして第二次世界大戦は「侵略国」対「被侵略国を支援する国々」の戦いとなった。資本主義国のこうした分裂こそが世界変革の機会であるという理論が現れた。おくれた国々は帝国主義の侵略を受けて疲弊し、買弁資本は帝国主義に従うことでわずかな利益を得るばかりである。だから、いつまでたっても資本主義的発展はなく、自覚的な共産主義者が労働者農民を組織して人民民主主義政府をしなければ植民地からの脱却は達成できない。逆に、おくれた被侵略国であっても労働者農民が立ち上がり帝国主義の侵略を打ち破れば、資本主義的発展を飛び越して社会主義への道が開けるという人民民主主義革命の理論を提唱したのは毛沢東である。毛沢東の理論に従い、事実中華人民共和国が成立した。

 このように帝国主義をめぐる理論が世界を動かして来たことは明らかだ。さて問題はこれからである。第二次世界大戦の敗戦国である日本はいったいどの位置にあるのだろうか?戦後世代の学生達の間で盛んに行われた帝国主義論争のテーマである。資本主義が発達すれば帝国主義になるのに決まっているから「GNP世界第二位という国が帝国主義でないはずがない」と言われればそのとおりなのだが、帝国主義国どおしは対立し帝国主義戦争に陥るはずなのだが、アメリカへの追従はそんな気配もない。第一アメリカ帝国主義がいったんは支配した日本をまた敵対する帝国主義に発展させるものなのか?帝国主義ってそんな甘いものなのか?という疑問がわいてくる。

実践でも日本が帝国主義かどうかで課題がまったくちがってくる。日本がアメリカ帝国主義に支配された従属国なら、民族資本家、農民を巻き込んだ反米闘争が大切だし、日本が自立した帝国主義なら敵対するアメリカを助けてでも日本政府をたたくことが第一になる。安保条約・米軍基地をかかえたGNP第二位国日本では、帝国主義と従属国の両面が出てくるから「アメリカに従属する独占資本」とか「帝国主義同盟」の言い方で繕うことになる。どうも釈然としない。

問題をもとに戻して考えてみよう。もともと帝国主義と言う概念は各国がそろって植民地分割に参加し、互いに争う状況を分析して生まれたものだ。資本主義が発達すれば、破綻を避けるためにどうしても外国侵略をすすめねばならないと言う分析は、他の帝国主義国との争いはあるものの,植民地の獲得自体はたいした苦労でもないと言う仮定に基づいている。民族自立の勢いは強く、アフリカのほとんどの国は独立したし、ベトナムのようにアメリカを追い払うだけの抵抗を示すところも出てくると、武力による制圧はコストがかかるようになる。やがては、割りにあわないものになってしまう。つまり、古典的な帝国主義が経済的に成り立たなくなったとも言える。

発達した資本主義は必ずしも帝国主義という形態をとらず、「平和的な」手段で支配権を広げるようになったのではないだろうか?工場を安い労働力の場所に移し、生産物を購買力の大きな自国で売る。こうすれば、当面デフレに悩むことはなくなる。それでも、独占資本はその領域を広げずに存在できないということに変わりがない。ここに多国籍企業となっていくグローバリゼーションの契機がある。ちょうど通信・交通手段の革命的進歩をして、多国籍企業が続々と生まれつつある。

多国籍企業は、原料や労働力を発展途上国に求め、自国に限らず購買力の高い国で売る。かつては多くの独占資本を率いて海外進出した国家が、今や独占資本に見放されつつある。日本の経済が破綻しようがトヨタ資本にとってはどうでもいいことになるだろう。世界の国々を支配する多国籍企業が生まれ、国家はこういった多国籍企業の手先に過ぎなくなる。しかし、すべての国が、多国籍企業を養うだけ十分な国内需要を発達させているわけではない。日本のように、国内需要を十分発達させることなく、一足飛びに海外進出してしまった国では、結局、国内経済はデフレに悩むことになる。

途上国生産・国内消費の多国籍企業方式も、多くの発展途上国が安い労働力を提供するだけでなく、自国に産業を発達させるようになれば、やがては、進出国の国内購買力を超えるようになる。この方式は未来永久に続くものではない。国内経済基盤の弱い国日本だけでなく、すべての国がデフレに陥ることになるだろう。世界は、またマルクスの予言した破綻に向かって進みつつあるのだ。マルクスを待つまでもなく、歴史のあらゆる体制には必ず終わりがあった。資本主義は未来永劫のものではあり得ない。

しかし、レーニンや毛沢東の理論に従い、一時は変則的に資本主義から脱出したかに見えた国も、教条的な社会主義建設を行って崩壊ないし変質してしまった。マルクスは資本主義を解明したが、その破綻を受けて作られるべき次の体制を研究してはいない。人類が、資本主義の後に何を建設するかは、いまだに残されたままになっている課題である。



リニア新幹線のからくり [社会]

JR東海がリニア新幹線を建設するという。資金9兆円は全額自社で負担して建設すると言うことだ。このことが好感を持って受け止められていたりする。いまどき公的資金をあてにしない事業も珍しい。自然破壊ややたらな電力需要の増加で原発を助けるなど、この計画に対する反対論もあるし、必要性に関しては誰をも納得させられていないと思われるが、JR東海が自分の金でやるのだからということで、大きな反対運動にもなっていない。

私企業が立ち上げる新事業なのだから、少なくとも何らかの目算があっての事だと思うのが普通であるが、実は目算は立ってない。立ちようがないのだ。

東京と名古屋を約40分で走る。現在の1時間半より、かなり早いのではあるが、品川駅は地下40メートル、名古屋駅は30メートルの地下に建設されるとなると乗り換えに時間がかかり、実質の時間短縮はたった30分になってしまう。30分短縮されるだけで、乗客がどっと増えるわけでもない。おそらく「のぞみ」からの乗り換えがほとんどだろう。

乗ってみたいと思う人も最初は多いだろうが、山梨の実験線に乗ってみれば、がっかりする。トンネルばかりで何も見えないし、実はガタゴトゆれるから乗り心地もたいして良くない。浮上しているから、飛行機のようにスムーズかと言えばそうはいかない。10cm 以内で高さを固定するには、かなりの硬いばね乗数がいる。だから、観光増客も見込めない。

ではなぜ、収益の見込めないリニア新幹線を作るのか?実は赤字を作るためなのではないだろうか。国鉄の民営化は大変奇妙な分割を行った。北海道、九州、四国は赤字営業が続いており、黒字化の目算は立たない。東日本、西日本、東海は黒字になっているが、その黒字の殆どは新幹線から来ている。中でも東海は新幹線ばかりだから、極端に利益が大きい。

西日本の売り上げは1.5兆円、東海は1.2兆円なのだが、営業利益となると西日本は960億円に対して東海は3493億円だから桁違いに東海は儲かっている。当然のように新幹線料金を取っているが、実は新幹線の運行費用が在来線に比べてそんなに高いわけではない。むしろ駅が少ないだけ費用は安いくらいだ。新幹線はボロ儲けなのだ。設備投資3000億円、研究開発300億円などと一生懸命支出を増やしているのだが、それでも1.5兆円もの余剰金が出てしまっている。

従業員の新卒まで含めての平均給与700万円で、国鉄時代に比べて、幹部はとてつもない高給取りになっているが、このままでは、赤字に悩むJR他社からの風当たりも強くなる。新幹線料金をタダにしろとの国民の要求も出てくることは必至だ。リニア建設費を支出すれば、最高5兆円の負債となるようだが、銀行は平気で貸してくれる。リニアからの収入がなくても、20年もすれば返済は出来てしまうからである。

これは、道路公団が、高速道路料金を値下げせず、次々に高速道路を作って、まるで赤字経営であるかのようにしていたのと同じ手法だ。夢の超特急などと吹き込まれて単純に喜んでおれば世話はない。物事には必ず裏のからくりがある。JR東海が本当にやるべきことは、北海道、四国と合併して、余剰金をローカル線の維持に使うか、新幹線料金を廃止して適正な価格で運転することだ。



平成大合併の後難 [社会]

平成の大合併から10年になろうとしている。あちこちで、小さな町がつぶれ、広域の市が生まれた。もとの役場は支所になったり、地域センターなどという訳のわからないものになったりしている。市役所は遠く、身近な問題を解決してくれるものではなくなった。

どうして、このようなことが行われたかと言えば、財政難がその根源である。合併すれば、合理化で行政コストが安くなり、施策に廻す予算が増える。そう宣伝された。多くの合併は、町長や議員たちが音頭を取って行われた。彼らにはエサが与えられていた。町会議員よりも市会議員のほうが圧倒的に格が上だ。見入りも大きい。県会議員などにランクアップを望めない議員たちにこれは魅力だ。

首長にとっての魅力は合併債だ。地方自治体は勝手に借金を出来ない。しかし、合併すれば合併に要する費用として債務を認められることになった。この金が手に入れば大型の箱物が作れる。自治体とは名ばかりで、日本の場合、国が何でも基準を決めて、自治体はその事務を取り扱う機関にすぎない。小さな町の首長の裁量権は非常に限られたものだ。しかし、箱物については違う。どこに何を作るかは、首長が最も権限を発揮できることだ。汚職とは行かないまでのキックバックも多いだろう。

合併で多くの新庁舎や何とかセンターが作られた。合併債はあくまでも借金である。返済しなければならないので負担は大きい。それだけではない。当然ながら、その維持費・改修費が後年重くのしかかる。実際、自治体の財政は少しも楽にならなかった。

合併10年を経て、更なる問題が起こっている。地方交付税の減額である。国がなぜ、合併を促したかというと、地方自治への国の負担を減らすためであった。合理化して行政コストを下げたのは、それを住民サービスに廻すためではなかったのか。少なくとも、今の行政サービスを維持するために必要だと納得したのではなかったのか。単に国の負担を減らすために不便を我慢して合併した住民は騙されたようなものだ。

もちろん、10年後に地方交付税が減らされることは、始めから決まっていた。街の政治家たちは、目先の合併債や市議昇格に目がくらんだだけだ。どうせ10年後には町長も町議も引退している。住民自治など知ったことかということだったのだろう。

住民にも悔悟はある。誰もが、うまい話には気をつけろという賢明さは持っていた。しかし、対案を見つけられなかったのだ。地方小都市の地盤沈下ははなはだしい。どこの駅前もシャッター通りになっている。大都市さらには東京への一極集中が続いている。地方小都市には展望がなかった。現状をなんとか打破したいという気持ちが、合併にひきつけられてしまったことは否めない。

地方復活の見通しは簡単には見えない。しかし、原発事故のあと、一極集中体制と集中豪雨のような輸出による日本経済は行き詰まりを見せている。ある意味では破局ではあるが、地方の再生は必ずやってくる。人間は地べたに張り付いて生きているのだ。

秘密保護法で変わるこれからの日本 [社会]

秘密保護法が国会を通ってしまった。多くの反対を押し切ってのごり押しであり、歴史に残る稀代の悪法が生まれたことになる。だからと言って明日から、秘密に近づいたとしてどんどん逮捕者が生まれるというわけではないだろう。この法律のもとで、どのような変化がおこるかを考えてみよう。この法律の効果は、秘密を漏らした人が罰せられるというような単純なものではない。

まず第一は、国が大手を振って国民に対して秘密な動きができるようになることだ。おそらく、最初おこることは、マスコミ操作だろう。マスコミの買収、あるいは報道強要がはじまる。これまでも、そういった動きはあったのだが、国会でも追及されるから、制約があった。これからは、大手を振って秘密だからと押し通せる。すでに何億円もある内閣機密費を使って、改憲に向けたキャンペーンが繰り広げられるだろう。これは、必ず行われると断言できる。

次に起こることは、秘密警察の暗躍だろう。 この法律の非常に重要な部分は「犯罪予防」を認めることにある。秘密を漏らしそうな人物、あるいは、秘密を探り出そうとしそうな人物をマークして「予防」することが出来る。政府が、「テロに類する(テロではない!)」と認めれば、秘密警察が尾行して、微罪逮捕も容易に出来る。秘密警察が何をしようが、それは国家の秘密として永久に隠すことができる。

秘密警察は謀略組織でもある。政府に対する反対運動にもぐりこんで、分裂させたり、あるいはわざと違法行為意の方向に持って行ったりすることが、盛んに行われる。内閣調査室、公安調査庁、自衛隊情報保全隊などの組織が拡大していくだろう。こういった組織が何をしても、秘密保護法で厚い壁に守られるようになる。反原発運動の内紛とか、野党議員の資金使い込みなどが、きっとニュースになるだろう。

秘密は腐敗をも、もたらす。秘密保護法の壁に守られて、防衛省は汚職の巣窟になる。どのような賄賂を取ろうと、それが暴露される心配はない。今でさえ、防衛大学の卒業生は、将来の金づるとして、防衛産業から、かなりの「好意」を受け取っているが、その歯止めは取り払われた。今後ますます防衛費が増えていき、多くが、防衛官僚と防衛産業のふところにおさまり、国の財政は疲弊していく。

こういった腐敗は政府全体に広がる。秘密保持を理由に、闇から闇へものごとが隠されるようになる。何が秘密なのかはいくらでも決められるからだ。政府の秘密の範囲はどんどん拡大していく。世の中は、全てが裏金や裏取引で進むようになる。闇を渡り歩く人物が、著量跋扈し、まじめに働く人々は希望を失う。

秘密保護法で国家の変質が起こる。国家とは、国民に隠れて様々な悪事を働く組織となるのだ。もちろん、こんな国がまともに発展するとは考えられない。経済はますます沈滞し、社会全体がすさんでいく。人口も減少し、日本の状況は、見るも無残な状況を呈するようになる。一時は社会主義を標榜した国が、衰えて行ったのは、社会制度の問題というより、社会主義を守るためと称して、秘密警察に依拠した政治をしたことが大きい。資本主義でも秘密警察の弊害は同じことだ。

政府に抵抗を示し、秘密を暴露しようとする人がこの段階になって、やっと出てくるが、そのときには秘密保護法の本来の条文が力を発揮して、これを押さえつける。多くの人がこの法律で処罰されるのは、このような事態になってからだろう。歴史的審判が下り、廃止されるまでには長い時間がかかるし、大きな犠牲を生み出すかもしれない。残念なことに日本はそういった道を選んでしまった。

2013年12月6日はそのような日として記憶されるだろう。

既得権益とは何か [社会]

みんなの党離党組と維新、民主で「既得権益を打破する会」を作ったという。 これまでも既得権益については多く語られてきた。自民党も小泉時代から盛んに言っていることだから、なにも目新しいことではないし、ことさら旗印として取り上げる必要もないと思われる。実際のところ、既得権益を打破しても何等良いことは起こらなかった。

それは既得権益の中身が「社会保障」であったり、「正社員で働くこと」であったり、「労働組合が良い雇用条件を求めること」であったりするという変な捻じ曲げになってしまっているからだ。一体、何が既得権益なのかを考え直してみる必要がある。

自動車メーカーが消費税を払うのではなく、逆に「もらう」ということになっているのも大きな既得権益だ。軍事産業が言い値で防衛省に売りつけて大もうけをしているのも既得権益だ。防衛大出身者が、ところてん式に、全員出世することが決まっているというのも既得権益だ。高級官僚の天下りは既得権益だし、宮内庁幹部や外務省大使の定年が特別扱いで異常に長いのも既得権益だ。内閣機密費として、領収書なしで何億もの金が勝手に使えるというのも既得権益だ。もともと国費で作ったJRの幹部が、民間企業ということで高給をもらっているのも既得権益だ。富裕層の税金が異常に少ないのも既得権益だ。

「既得権益を打破する会」が、これらの、本当の既得権益を打破することは決してない。庶民のささやかな権利保持を穿り出すことだけを繰り返し、未来永久に「既得権益を打破する」を掲げて政治取引を続ける。そんな集団を信用するわけにはいかない。

年末にみんなの党から離党した理由は「政党助成金」の算定に間に合うようにしたのだという。何億もの金を、なんの実績も無く、配分してもらうことこそが既得権益だ。既得権益を目当ての旗印に「既得権益を打破する」などと言っているのだから、最初から迷走してしまっている。


「復興」の行く末 [社会]

東日本大震災の直後から、盛んに「復興」と言うことが言い出された。津波被害を受けた三陸の町に、もともと「ふたたびおこる」などというほどの活況があったわけではないから、どうも言葉がそぐわない。震災前から、過疎で寂れていた地域だ。それに、福島原発の復興なぞは、だれも望んでいない。

にもかかわらず、「復興」が叫ばれ、「がんばろう日本」とか「絆」などという言葉も多用された。東北に頑張ろうと呼びかけることはわかるのだが、なぜ日本に広げた表現を使わねばならないのか。抽象的に「絆」などと言うが、被災者と自動車輸出のどこに絆があるのか。

阪神淡路地震の時には出てこなかったこれらの言葉が、東日本大震災でやたら使われたことには、隠された意図があった。復興増税による復興予算がそれだ。所得税や住民税を増やして10.5兆円を供出させた。国民も「被災者のためになるなら……」と認めたものだ。

名称からして予算の流用が最初から意図されていた。被災者救援予算ではなかったのだ。被災者の生活再建は細々としたものであり、「復興」に当たらない。「復興」にふさわしく、「絆」を通じて、「がんばろう日本」に使うことが意図された。

沖縄の国道整備事業(6千万円)道路整備や官庁施設、公営住宅の耐震化に使われた「全国防災」名目の予算は4827億円。

極めつけは、軍事費への流用で、武器車両等整備費に669億円、航空機整備費に99億円。これも、「がんばろう日本」なのであろう。

さらにおかしいのは「国内立地推進事業費補助金(3千億円)で、トヨタが愛知県内の工場でのエコカー生産するのに5140万円をもらっているし、キャノンは2500万円、住友化学は2500万円、東芝が1400万円等々、大企業は山分け状態だ。被災者とはなんの関係もない。これが「復興」である。

復興予算には、法人税の増税もあったが、早々と今年度で、前倒しで終了する。国民の所得税のほうは25年続くと言うのだから、あまりにも大企業本位が露骨だ。

大義名分も何もない無茶苦茶な金のばら撒きには、あきれるのだが、実はこれにも裏がある。補助金をもらった企業から、自民党へ資金還流されている。33社で2億3224万円が、国民協会・自民党に政治献金されている。補助金をもらって1年以内の企業は、政治献金を禁止されているはずだが、震災は特別だと言う論理で押し通しているらしい。

ここまでひどい安倍政権を、下がったとはいえ、まだ支持している人がいるというのが信じられない。


これからの日本はどうなるか(2014) [社会]

2013年は安倍政権の登場で始まった。民主党政権の期待はずれが禍して、国民は新政権に経済回復の希望を託してしまった。公共投資と企業減税・金融緩和などという旧態依然とした政策ではあったが、期待が集まってアベノミックスなどと言われた。丁度、経済変動の節目に当たったので、GDPの回復も起こり、年末はかなりの株高となった。富裕層はこれで潤い、アベノミックスが、庶民の賃金にまで波及するかどうかと注目されている。

結果的に、庶民が潤うことはないだろう。アベノミックスがもたらしたのは円の安売りである。株価はまだ上がっているとはいえ、国際収支は、赤字が続き、ついに貿易外収支も含めた経常収支まで赤字となっている。今後、輸入物資の値上がりが続くから、大幅賃上げなしには庶民の生活は苦しくなる。消費税の値上げはこれに追い討ちをかけることになるだろう。インフレによる実質的な賃下げが行われることになる。これまで進められてきた非正規雇用による輸出のためのコストダウンが、新たな形態で続くだけだ。国民の我慢の限界がどのような形で現れるのだろうか。

アベノミックスがやったことは、企業減税だけでなく、公共事業や軍事発注を乱発するばら撒きであるから、国の財政赤字は、ますます増大し、過去最高となっている。これを、消費税収入で補うつもりは見られない。収入増があれば、すぐにばら撒きを始める体質は変わっていない。赤字をもっぱら、社会保障の切り下げでこれを補おうとするから、社会不安は増大する。秘密保護法でおさえつけたり、対外敵愾心をあおることで、矛先をそらしたりする小手先の方策がどこまで続くかのものだろう。

アベノミックスは、米国と株式市場の活況を同期させていることが一つの特徴と言える。これまでは、景気の波がアメリカと日本では違っていたのだが、今回から同期するようになtった。これは、世界経済との連携性が決定的に強まったことを意味する。富裕層の得た金は、消費にまわらず、ますます金融市場に向かい出す。1つになった金融市場はさらに規模を拡大し、実体経済をさらに翻弄することになる。

こういった経済環境の中で、アベノミックスは下降局面にはいる。今年の後半には、消費税不況が明らかになるだろう。株価の下落により引き起こされる経済不安は、国際収支や財政赤字との連携で加速され、東京株式市況をきっかけにした世界的な株安ショックが起こるかもしれない。次の不況の入り口としてこういった株価変動は十分ありえる。物価高の中での不幸だから、生活にとっては厳しいものにならざるを得ない。

こうした経済環境にひたすら歴史に逆行するような、ボナパルティズムを前面に押し出す安倍内閣ではあるが、世界の動きを止めることは出来ない。中国やインドの工業生産は引き続き増大していく。携帯電話ひとつにしても、中国では8億もの加入数になった。日本の市場規模とはまるでちがう。中国の工業技術は確実に進歩している。「中国製品は品質が低い」などという状況は長く続かず、ここ2,3、年で、中国製の人気一流ブランドといったものも現れてくるだろう。

アジアは変貌してきており、ASEAN諸国でも経済の離陸が始まる。しかし、日本の政治状況は右傾化からなかなか出られないだろう。経済が行き詰ると、それを外向きに転化しようとする宣伝は強まる。インターネットによる世論形成の大衆化は、一時的ではあるかもしれないが、情報操作しやすい大衆を世論の前面に押し出すからだ。アジアでの日本の孤立化が懸念される。

ヨーロッパは、統合の負局面が現われて、かなりの経済危機が訪れたが、落ち着きを取り戻すことになる。しかし、アフリカからの人口流入などの基本的な問題は続かざるをえないので、急激な立ち上がりはない。ただ、国際ファンドの横暴に対する規制は、ヨーロッパを中心に進展するかもしれない。国際金融取引税の導入や、法人税の引き下げ競争を防止する協定なども、ヨーロッパから始まるだろう。

アジアの隆興には、まだ時間がかかり、ヨーロッパもということで、アメリカは引き続き世界をリードすることになる。アメリカは、三権分立や地方自治、一応の民主主義を保ち、結果的に軍事への依存も自浄的に抑えられる強みがあり、まだしばらくは隆盛を保つことになりそうだ。しかし、アメリカ企業は、国際資本として軸足を海外に移して行くのが明らかなので、アメリカ国内にどれだけ繁栄が続くかは定かではない。

いずれにせよ。こうした大きな世界の動きに対して、時代錯誤的な感覚で対処しようとする日本は、やはり、世界の趨勢には取り残されてしまわざるをえない。世界から完全に孤立する前に、日本人が気づいて方向転換できるかどうかが、これからの日本再生のカギになる。

平和に対する意識の違い [社会]

2014年はのっけから、安倍首相の靖国参拝事件ではじまった。近隣諸国だけでなく、世界中の識者から批判が集まったのだが、国内の反応はいまひとつだったような気がする。どうも、これを近隣諸国との外交問題だととらえる人が多いようだ。

秘密保護法や、解釈改憲、軍事費増大といった動きが、国内では平和に対する脅威と受け止められていない。日本人は、これらの動きはあっても、まさか戦争になりはしないだろうと思っている。しかし、事実はもっと重い。先の戦争でも、昭和10年代になって、中国で小競り合いが続いても、多くの日本人は、まさか大戦争で、ここまで大きな惨禍になるとは、だれも思わなかった。

第二次世界大戦では、300万人の日本人が死に、2000万人のアジア人が殺された。東北大震災で3万人の人が亡くなったことは、大きな惨禍であるが、戦争はもっと大きな桁違いの禍である。避けがたい天災ではなく、人間が意図的に行った行為だから、避けようとすれば避けられたはずだ。しかし2000万人を殺すなどということが、現実に起こったのだ。人間とは、これほどまでに愚かな生き物なのである。

人間が愚かであることは、いやというほどわかった。戦勝国も勝った勝ったと浮かれていたわけではない。全世界で、戦争には深刻な反省があった。どうすれば、このような戦争を二度と起こさずにすむかを、どの国も真剣に考えた。国連の発足などは、その結果である。現在の世界は、こういった第二次世界大戦の反省の上に成り立っている。

ところが、敗戦国である日本は、復興ばかりを追及してきた。経済を立て直し、新たな発展を目指すことだけに集中してきたといっても過言はない。日本政府は、世界の平和のために、どう努力すればよいかを真剣に考えたことがなかった。

日本こそが第二次世界大戦にたいする反省が必要なのだが、その気配が見えなくなっている。ひたすら経済振興をはかり、ひたすら国家利益を追求しようとしている。周辺諸国から、非難が起これば、なんとかごまかす対応をするだけだ。靖国批判も、外交問題ととらえて、輸出の妨げになることを懸念するだけだ。

各国が自国の利益だけを追求すれば、戦争は必然的だと理解しよう。唯一の被爆国であり、戦争の犠牲者も多く出した日本に、世界が求めているのは、二度と第二次世界大戦のような事態を招かないように、真剣な努力を率先して行うことなのだ。ところが日本のやっていることは、あいも変わらず、利益、権益の追求である。

世界は日本にいらだっている。このいらだちをもっと真摯に受け止めなければならない。世界は日本よりももっと平和に対して敏感だ。日本人はもっと、平和に対する意識を高めねばならない。

明治維新否定論 [社会]

安倍首相の靖国参拝は、近隣諸国からの非難だけではなくアメリカ副大統領からも止めろと言われる騒ぎになった。世界から批判されるのは当然のことなのではあるが、日本国内にごうごうたる非難が巻き起こっているというわけではない。仮にこれがもしドイツであり、大統領がヒットラーは国のために死んだ英雄だなどと発言したら、即日辞任は間違いない。

200万人の日本人と2000万人の周辺諸国民が死んだ先の戦争は誰が考えても良い事ではあり得ない。問われれば、誰もがこれを誤りだったと認めるだろう。しかし、誰が悪くて、日本がどこで間違ったかと問われると、明確に答えられる人は少ない。ドイツ人の場合ははっきりしている。悪いのはヒットラーで、ナチスに政権を取らした時点でドイツ人は間違いを犯したと答えるだろう。

日本人は、戦争に対する反省を、はっきりとしていない。なんとなく、ぼんやりと、軍部の独走があって、それに引きずられたと考えている程度だ。間違ったのはいつの時点か、具体的に誰が悪かったのかは、答えられない。

歴史を見れば、日本の戦争はずっと引き続いている。日清戦争の結果が必然的に日露戦争につながり、日露戦争で得た満州利権を確保するために、必然的に満州事変そして、抵抗する中国に対する日中戦争、中国を援助するアメリカとの戦争へとつながる。この間、どこで間違ったかなどということを見つけ出すことは出来ない。

そしてここに、明治維新の虚構が重なる。明治維新を日本の近代化として肯定する史観が日本には骨の髄まで染み込んでいるのだ。明治維新を賛美すれば、欧米の進出に抵抗することが嵩じた日清戦争などという考えが容易に出てくる。これが第二次世界大戦にまで連続であるのは先に述べたとおりだ。

よく考えてみれば、明治維新は虚構の塊であることがわかる。「士農工商」を廃して「四民平等」を実現したなどと言うのは大嘘だ。江戸幕府が「士農工商」の序列を定めた事実はない。金持ちの商人が百姓にへりくだるなどと言うことはありもしない。あったのは、将軍・大名・武士・平民の序列であり、明治になっても皇族・華族・士族・平民の身分制度は歴然としてあった。

「文明開化」も明治維新とは実は関係ない。そもそも開国をしたのは幕府だ。明治維新派は尊王攘夷を唱えて、開国に反対していたのである。大政奉還は、攘夷が実行できないことが理由で行われた。「王政復古」で、権力を手にした新政府は、もはや幕府によって作られた流れに逆らうことが出来なくなって、開国政策を受け継ぐことになっただけである。だから、文明開化は、幕府時代に始まり、明治維新とは関係なく進んだはずだ。

福沢諭吉が大学を作ったのは、慶応であり、明治維新以前であるし、東大は幕府を起源とする開成学校を引き継いだものであるし、阪大は幕末からある緒方洪庵の適塾から始まっている。いずれも、文明開化は明治になってからではないことを示している。

明治維新とはなんだったのかというと、結局は、徳川と薩長の権力争いのクーデターでしかなかった。その中で、薩長の下級武士が下克上で華族になったりした。明治の「元勲」たちが利権を手にするためのものだったにに過ぎない。このような身分制度の流動化も、明治になってからではない。旗本株を買った町人上がりである勝海舟を幕府の筆頭に取り立てたのは将軍家だ。世の中はすでに動いていたのである。

日本は明治維新で道を誤った。その立役者は勤皇の志士たちである。世間から忘れられていた天皇を引っぱり出して自分たちの利権を固めた。その成れの果てが第二次世界大戦である。ついでに言えば、今も続く料亭政治は、勤皇の志士たちが寺田屋でやっていたことが、その始まりだ。政治の裏工作体質は今も続いているのである。

では、どうしたら良かったかというと、ジョセフ彦が「国体草案」で述べたように、幕府が政権を投げ出した時点で、二院制議会を開設すべきだったのだ。世界の政体を見聞きしたジョセフ彦が見た当時の力関係は的確だった。諸大名が協議する院が、多分当時の世論を代表しただろう。これに「百姓町人の院」を加えた二院制を提唱している。慧眼である。松平春獄も「虎豹変革備考」で二院制議会を提唱し、この中に百姓町人の参加を示唆している。こうした市民民主主義への流れをひっくりかえしたのが明治維新だった。

もし、薩長士族のクーデター陰謀がなく、これが実現されていたら、文明開化はもっと順当に進み、やがて「百姓町人の院」が「諸大名の院」を圧倒する力を持つようになって、おそらく、20世紀に入ることには民主主義が実現されていただろう。日本を戦争の道に進め、1945年の敗戦にいたるまで、民主主義の実現を阻んだのは明治維新だったのである。

マルハニチロの農薬事件 [社会]

マルハニチロの冷凍食品に農薬が入っていた事件には、考えさせられるものがある。まず第一に、製造が、まったく別の会社で行われていたことだ。

マルハニチロは看板だけの会社で、実際にはアクリフーズで作られていた。アクリフーズは食品中毒を起こした雪印乳業が冷凍食品部門を分離独立させたものだ。マルハニチロに買収され、今度また事件を起こしたのでまた名前を変える。法人というのは、無責任というか、責任を忘れさせることがいくらでも出来る存在なのである。

いまの社会は下請けやOEMばかりで、責任を持ったものづくりの体制が失われている。日本の産業構造がおかしくなっているのではないだろうか。看板ばかりが表に出て、都合の悪い看板はいくらでも使い捨てにできる。これでは、製品に愛着を持ち、働く喜びを持つことが難しい。まともな発展が期待できない。

犯人は、49歳の契約社員であるというが、物証もあまりなく、冤罪の可能性さえないとは言えない。食品に農薬を入れても、犯人は何の利益も得られず、動機が十分とはいえないからだ。精神的に追い詰められたやけっぱちの犯行としか解釈のしようがない。精神的に病んでいるのだろう。

入社して8年。いまだに契約社員で、社員になれるよう努力しなければならない立場にある。ベルトコンベアに乗ったピザにチーズなどを並べる作業を朝から晩までするのに、8年で足りないどんな熟練が必要なのだろうか。レストランのピザ職人のように、お客さんの喜ぶ顔も見られない。ひたすら同じ作業を続けるだけだ。年功序列から実力主義となって、給料が減らされたというのだから、なんのことはない、年をとったから給料を減らされたようなものだ。年齢も49歳、契約を打ち切られたら、再就職は難しい。我慢して働くしかない。

もし、僕がそんな状況に追い込まれたら、やけっぱちになって、毒薬でも放り込もうという気持ちに絶対ならないかというと、そんな自信はない。 働く人に、働く喜び、社会の一員としての責任を感じさせる職場が失われている。これは大きな社会問題だろう。低賃金に保つためだけの格付けで、契約社員などという妙なカテゴリーの従業員を作らず、どうして、普通に社員として働かせられないのだろうか。

社会の構造がゆがめば、人々の意識もゆがんでくる。これは、当たりまえのことだ。

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