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中国は、尖閣領有宣言をしていた [尖閣]

日本の尖閣領有は、どの国も領有を宣言していない無主の地を領土に編入したという無主先占の法理によっている。当然、中国が尖閣の領有を宣言していたかどうかの議論があるが、古文書の記録が領有を示しているかどうかは、現在の国際法など無かった時代のことだから、その眼でみることが必要になる。

現在の国際法はアフリカの植民地分割などを経て形成され、徴税、警察といった実効支配を重視しているが、その前の大航海時代には発見や命名といったことが重視されていた。ちなみに西インド諸島がスペイン領となったのはコロンブスが発見しただけで、まだ、実効支配はない時だった。中国による尖閣の発見は16世紀のことであるから、当時の考え方を適用すべきだろう。無人島の場合、艦船や航空機がなければ実効支配といっても限りがある。当然、施政権の中では命名権がその大きな部分を占める。

中国は明の時代に命名権を行使し、それを「使琉球録」と言う公文書に記載して、世界に公表した。これは、立派な領有宣言と言える。陳侃は11回目の冊封使であり、釣魚島といった名称はもっと早くから使われていたという記録もあるが、国家として命名権を行使したのは、これが最初になる。この記述には、「冊封の詔勅」はもとより、陳侃が書いた「使事記略」の内容に至るまで、いくつもの「閣議決定」を上回るレベルの公式裁定がなされたはずだ。

近代国家の領有宣言としての体裁は整っていないが、少なくとも日本が1895年にやったと言う、国標の建設を許可する閣議決定よりも、よほどまっとうなものである。日本の領有宣言なるものは、実際に国標を建てたわけでもなく、その「閣議決定」自体が、1954年まで「秘133文書」として公表されず、もちろん外国に対して通告もしていない。およそ宣言として成り立ちようがないものだからだ。

もう一つ重要なことは、琉球と中国の間で、明確な国境線の合意があったということだ。「使琉球録」「重編使琉球録」「中山傳信録」には繰り返し、国境線についての記述があり、琉球側の同意が含まれている。記述についてのあいまいさを指摘する反論もあるが、200年に渡って、一貫して、国境が久米島と赤尾嶼の間にあるとしていることからすれば、個々の資料批判を越えて、国境線が確定していたことを動かしようもない。この国境線に従えば、尖閣は中国領である。日本の主張では平嘉山(彭佳嶼)と釣魚島の間に国境があると言うことだが、この根拠は古文書のどこにも見られない。

近代国家としての尖閣領有宣言も、実は行われている。沖縄は1872年に日本が琉球王国を廃止したものだが、これに対して琉球の宗主国を自認していた清国が抗議して紛争になった。中国は沖縄(琉球)全体の領有を主張したのだが、地理的に当然、中国と沖縄本島の間にある尖閣も含まれている。もちろん、日本がこれを認めたわけではないが、領有を主張して他国にも通知したのだから尖閣を含む地域の領有宣言行為であることに間違いはない。尖閣が、1895年まで、どの国も領有意思を示していない無主の地であったなどと言うのはウソである。

この時日本も沖縄全体の領有を主張したわけだが、日本はこれを尖閣の領有宣言とする立場を取ることが出来ない。日本側から琉球と言った場合、これに尖閣が含まれるかどうかは地理的に自明ではないからだ。70年後に外務省が無主先占のストーリーをでっち上げるために1895年に領有宣言をしたなどと言う無理な主張をしなければならなくなったのは、このためである。

日中両国が琉球を領土とする主張をぶつけ合い、大きな問題になった。現在の日本人はまるで沖縄が古来から日本の一部であったかのような錯覚に陥っているが、琉球は明らかな外国だったのである。日本が琉球侵略を「処分」などと言っても国際的にはなかなか通じるものではなかった。実質的には薩摩が支配していたのだが、代々の琉球国王は中国が任命していたのだから当然だろう。「処分」から6年経っても、まだ国際的には納得が得られない状態だった。

1879年7月、アメリカのグラント大統領は、琉球に関する日中の紛争に仲介案を示した。それは、琉球を3分割して、奄美までを日本領、沖縄本島を独立国、先島諸島を中国領とするものだった。国際社会から見て琉球問題はこのように評価されていたのである。これを受けて日中の交渉が始まった。文言としては、外務省文書が、「8月22日に中国総理衛門が出した書簡に、琉球は中国の所属たりとの旨を叙せられ」と、中国の領土宣言を記録している。

翌1880年に、日本は国際社会の要請を受け入れ、沖縄本島も日本に含め、先島諸島だけを清国に譲る提案をした。この時の条約文は、「沖縄島以北を日本、それ以外宮古八重島を清国」としているので、沖縄本島より南にある尖閣は清国領となる。

6月29日に天皇が条約案を裁可、「之を批准すべし」と勅命を出し、日本からの割譲提案を清国も受け入れ、1881年には仮調印まで進んだが、清国が沖縄本島の独立にこだわる立場を復活させ、交渉は中断してしまった。朝貢国の独立を守るのが宗主国の役割であり、領土分割に応じてしまっては、大義名分が立たないというのが理由だが、宮古八重山はあまりにも貧しく、分前が少ないという不満があったのも事実だろう。もちろん条約は成立しなくとも、尖閣を含む地域の領有を主張したという事実は残る。

正式な協議の再開はなかったが、井上外務大臣は、「前年宍戸公使ヲシテ貴政府ト和衷ヲ以テ御商議ニ及バセ候処、貴政府ニテ御聴納コレ無キヨリ、事スデニ九分ニ及ンデ一分ヲ欠キ居候」という書簡を出し、国際社会に順応する姿勢を残したのである。鹿鳴館外交で条約改正を目指していた当時の政府にとって、アジアの野蛮国でないと認められることが、非常に大切なことであった。

1885年に尖閣への国標建設が問題になった時、「かまうものか、やっちまえ」と言う内務卿山県有朋を外務卿井上馨が「あらぬ疑いをかけられる」と押しとどめた。「あらぬ疑い」とは、何だったのだろうか。それは、沖縄領有問題の交渉を通じて、清国の領有宣言を知っているにも関わらず国標を建てるという「野蛮国の振る舞い」である。この交渉はアメリカなど国際社会の注視のもとに行われたからだ。

この交渉がどういう結末になったかと言うと、日清戦争で台湾まで日本領となったことで、自然消滅になった。沖縄・尖閣は日清戦争で日本領と確定したのだ。欧米外交の手前、尖閣については、おおっぴらに領有宣言することが出来ず、秘密裏に実績を積み上げようとしたのだが、実効支配を確定するためには、行政区画を整備しなくてはならない。沖縄の行政区画は、日清戦争が終わった後の1896年の勅令13号まで、24年間に渡って定まらなかった。日中交渉の結論があいまいで、沖縄自体の帰属が国際的には確定していなかったからである。だから、尖閣の実効支配も日清戦争が終わるまでまったく全く進まなかった。

尖閣は台湾領有で自動的に日本領となったようなものだが、日本は領有をどこにも通知していないので、外国が、尖閣を日本が領有したことを公式に知るには、1897年の勅令169号によるしかなかった。もちろんこれは日清戦争で台湾を取った後である。日本の尖閣領有はすべて日清戦争の結果に基づいている。

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