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「尖閣は無主の地」論の困難 [尖閣]

琉球と中国の国境については古い資料がそろっている。明朝の『使琉球録』には、「11日の夕、古米山を見る。すなわち琉球に属する者なり」「夷人舟に鼓舞し、家に達するを喜ぶ」とあり、国境が赤尾嶼と久米島の間にあったことが記されれている。『中山傳信録』には「姑米山は琉球西南方界上の鎮山なり」と書いてあり、同じ場所を国境としている。『重修使琉球録』も、「赤嶼に至る、赤嶼は琉球地方を界する山なり、あと1日の風で久米山に至るべし」と、やはり赤尾嶼と久米島の間を境界としている。これだけはっきり資料が揃うと、この事実は否定のしようがない。

だから琉球の範囲が久米島までであることには異論がない。しかし、久米島から西については、中国領とすることに異論が唱えられている。中国領であるという明文はないので、これは琉球と「無主の地」の境界に過ぎないという説も可能だ。しかし「琉球地方を界する」といった場合、何から界するかが意識されており、それは当然中国と考えるのが普通だ。「無主の地から琉球地方を界する」では迫力がなさすぎる。それぞれの派遣報告にも琉球領に入った時に感慨はあるのだが、中国領から「無主の地」に出るときの感慨は書かれていない。「無主の地」と言う存在には疑念がもたれる。

もし「無主の地」である場合、必ず中国と「無主の地」の境界もなければならない。2つ目の境界がなければ、赤尾嶼までずっと中国領になる。尖閣が日本領であると主張する人たちは、冊封使の正規の報告には全く見られないので仕方なく、他の文献で2つ目の国境がどこにあるかを示す努力をしているように思われる。しかし、これがなかなかはっきりしない。現在の所、次のような論拠が示されている。この3つの説は、互いに他の文献を否定することになり矛盾する。例えば①は②や③の島さえ中国領ではないとするし、②,③を主張した場合、当然この重要な島の存在を書いてない「大明一統志」は出鱈目な書物であることになる。

①「大明一統志」による大陸沿岸説
「大明一統志」は明の各地をリストして川や山、産物、などを書いた地理書なのだが、これには尖閣が書いてない。これが尖閣が中国領でなかった証拠だと言う。尖閣だけでなく、他の島も書いてないのだが、この解釈として、中国では大陸から一歩外に出れば領土でなく、大陸の海岸線が「無主の地」との境界だったと言うことを主張する。これだと、出航の感慨と中国の領土から離れる感慨が重なるから、冊封使の記録に現れなくとも当然で都合がよい。しかしながら、実際には島を記述して中国領であることを明確に書いた文献もあるので、「書いてない」と「領土でない」は一致しない。②や③の文献そのものが「書いてないから領土でない」を否定することになる。「島」という項目を作らないのは「大明一統志」の特異な記述方法だと言うしかない。そのくせ高い山のある島については、「山」の項目で出てきたりもするから本の内部ですら矛盾している。そもそも、砂浜を一歩踏み出せば外国などと言うのは、常識はずれの珍論でしかない。

②『皇明実録』による東引島説
皇明実録は明時代の記録であるが、その内の「神宗顕皇帝実録」巻之五百六十に日本人明石道友を取り調べた記録がある。明石道友は1616年に台湾制覇の試みに参加して13隻の船で出発したが難破し、一隻の軍船が東湧島(東引島)にたどりついた。東湧島には強力な守備隊はおらず一時的に日本が占拠する形になった。漁民に紛れて隠れていた董伯起という役人を日本に拉致して帰ったのだから、この島には漁民や役人もいて、明が実効支配していたことが確実だ。「大明一統志」に載っていない島は、実効支配のなかった島だと言う議論にとって、これほど具合の悪い文献はない。

翌1616年、長崎代官の村山等安は遠征の生き残りである明石道友に捕虜の董伯起を返還して交易を求める任務を与えた。明石道友は福建省黄岐に至って取り調べを受けることになったのだ。取り調べを行った海道副使韓仲雍が述べた言葉に、

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というのがあり、「南は台山(現・台山列島)、?山(現・四?列島)、東湧(現・東引島)、烏?(現・烏?嶼)、彭湖(現・台湾の澎湖諸島)が皆我が関門であり、その内側に侵入を許さない。それ以外の大海は華人も夷人も共にするところだ」と読める。

これを持って東引島までが中国領であるとするのだが、ここで述べていることは海であり、領土の話ではない。これらの島を「関門」として、東引島から内側は、海に立ち入ることも許さないと言うのが明の国策だった。現代で言う大陸の領海ということになる。しかしそのほかの大海については航行自由であるとしている。注目すべきは航行自由かどうかは、明が決めることだとしている点だ。大海も明の支配下であることを誇示しているのだ。

尖閣が領土であっても、距離は300㎞もあり、その間の海まで全部外国船は航行禁止というわけには行かないのは当然の話だ。この文脈は尖閣近辺も含めて大海の航行は自由であるとしているが、海の規制を述べただけで、島の所属にはかかわらず、したがって中国と無主の「地」の境界をし示したものではあり得ない。


③「観海集」(汪楫)による馬粗島説
冊封使汪楫は詩人でもあり、詩集も書いている。彼の詩集に「東沙山(とうささん)を過ぐれば,
これ●山(びんざん)の尽くるところなり」とある。これを根拠に馬粗島が境界とするものだ。(びん)と言うのは昔、福州あたりに住んでいた(びん人)と呼ばれる人たちの地区だ。一時は福建全体に勢力を持ったが漢人に制圧された。

ここで、わざわざ古語である(びん山)を使っているのは詩的表現であり、福建の大海に入り「びん」の雰囲気をもった山々は、もう見えなくなったと言う感嘆を披露しているのだ。これが素直に詩を鑑賞する読みかたであり、福建省が尽きたわけでも国境を越えたという意味でももちろんない。

逆に汪楫は、自身が書いた「使琉球雑録」で久米島と赤尾嶼の間にある境界を認め、さらに「中外の界」であるとする船乗りたちの祭りを紹介している。素直に読めば中国と外夷との界であり、尖閣までは中国領であるという認識だったことがわかる。

詩的表現だから読み方にはある程度の自由度がある。この自由度を使って、尖閣日本領論者はあくまでもこれが境界を示すと言い張るだろうが、①と違って、10以上もある冊封使文献にただの一度も出てこない現実からは逃れられず、ここに境界があったと言うことが一般的認識でなかったことは否めようがない。

結果的に、どの説をとっても、無主の地であるなどと言うことは立証できない。無理な立論である。

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コメント 2

いしゐのぞむ

大陸海岸が公式領土線、そこから福建沿岸島嶼までが海防線です。海防線は西暦十六世紀末に出現した線です。後に海防線は次第に國境線のやうに意識されるやうになりました。まづは拙著諸作に提示した多數の史料をよくよくご檢討下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html
學術は日進月歩です。今秋の八重山日報『尖閣獺祭録』でも漢文史料の海防線に論及してあります。

by いしゐのぞむ (2016-12-15 19:20) 

おら

大明一統志には本府から海岸までの距離が書いてあるだけで、大陸海岸が領土線などと言う文言は何処にもありません。海防線については、籌海図編で尖閣を含むものが提示されています。石井さんの主張は論拠薄弱ですね。リンクは内容があるものにしてください。本の宣伝では議論できません。
by おら (2017-01-07 13:38) 

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