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「使琉球録」と尖閣諸島 [尖閣]

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「使琉球録」は明王朝の嘉靖代に書かれた公文書であり、「使琉球録序」「冊封の詔勅」「諭祭文」「使事記略」「群書質異」「天妃霊応記」からなる。当時琉球王国は日本から独立した国で、明に朝貢していた。1854年7月11日には「琉米修好条約」を結ぶなど、欧米にも独立国として認識されていた。その琉球王国は明治5年まで続いたが、「琉球処分」で王朝が滅び、日本に併合された。

この書は明が琉球王国との交流をまとめたもので、この中の「使事記略」が派琉球使節陳侃(ちんかん)が書いた1534年の旅行記となっており、当時の様子が詳しく書いてあって面白い。注目すべきは尖閣諸島に関する記述があることだ。単なる旅行記ではなく公文書の中に含まれた報告書であるから、国の裁可を経た記述ということになる。

5本マストの大船で、朝貢使に付いてきた琉球人を同行させて5月8日に福州海岸を出て、途中で難航しながら23日に那覇に到着する。海路は島をたどってほぼ直線的に東に行くものだ。9日小琉球(台湾)を遠く南に見て東進。「10日平嘉山を過ぎ釣魚嶼を過ぎ黄毛嶼を過ぎ赤嶼を過ぐ」と尖閣諸島の記述がある。「11日の夕、古米山を見る。すなわち琉球に属する者なり」と書いてあるので久米島からが琉球国だと言う事になる。公文書での記載だから、現代風に見れば官報公示でもある。「夷人舟に鼓舞し、家に達するを喜ぶ」とあるから、琉球国側でもその認識は一致していたことがわかる。

使琉球録はよく知られるようになり、ネット上でも言及されることが多くなった。「これだけでは領有の根拠にならない」だとか反論がある。しかし、重要なことは、これが公式文献であり、尖閣は中国の中央政府にも認識されていたということである。これに対して、日本側では、尖閣に関する記録は一切ない。漢籍に詳しい知識人はともかくも、政府(幕府)はその存在すら知らなかったのである。

「使琉球録」のほかにも、「籌海図編」(鄭若曽、1562)、「使琉球雑録」(汪楫、1683)、「重編使琉球録」(郭汝霖,1562)など中国には尖閣の文献が多数あり、中国では尖閣がよく知られていたことがわかる。琉球との国境に関しては、郭汝霖も「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」と書いているから、赤尾嶼と久米島の間にあったことが再び確認できる。

1721年に徐葆光が書いた『中山傳信録』は、6巻にわたって琉球の風俗、地理、官制など多岐に記述したものであり、琉球側の人々とも実地協議して書かれたものである。中国だけでなく、欧州や日本にも伝えられた。日本の知識人はこの本により初めて尖閣を知ったのである。「海国兵談」で知られる林子平は、「三国通覧図説」で、尖閣を中国領として描いている。これは、中山傳信録による知識に従って色づけしたからに他ならない。当時、琉球も中国も外国であったから、客観的に読むことができた。中山傳信録を素直に読めば中国領とするしかないだろう。「三国通覧図説」は日本での尖閣に関する唯一の文献となっているし、小笠原が日本領であることの根拠にもなっているから史料価値を否定することもできない。

『中山傳信録』で「姑米山は琉球西南方の界の上の鎮山なり」と尖閣と久米島の間に国境があるという認識が再度示されていることは大きい。3度に渡り、200年も、国境論が中・琉双方で維持されていたことになる。この国境論に従えば、尖閣は当然、中国領となる。

現在、日本は尖閣の領有を主張している訳だが、ここまではっきりした国境論を崩す詭弁論法がすごい。確かに久米島から西は琉球領でなかったことは認める。しかし、それは中国領であったことを意味しない。どちらでもない「無主の地」だったのだから、どちらが取っても良いことになり、日本領に出来る。したがって久米島から西も日本領である。---というわけだ。

中山傳信録は、日本でも複写本が出版されるほど普及した。したがって尖閣が中国領であることは、日本でも広く受け入れられた常識となっていたと言える。明治になって、尖閣の調査を命じられた沖縄県令も、『中山傳信録』を引き合いに出して、日本領とする考えに懸念を示している。

こういった尖閣帰属の常識を強引に転換したのは、明治以降に生まれた海外膨張主義と日清戦争である。外務省は「慎重に検討した結果、中国の施政権が及んでいないことを確認して無主の地とした」などとしているが、慎重に検討したという内容の記録はどこにもない。一番簡単な方法は中国に問い合わせることだが、それさえしていない。命名といった施政権が尖閣に及んでいたことは確かであり、日本もそれを受け入れていたのである。

日本の尖閣に関する知見は、そもそもが中国に頼ったものだったので、島名も、長らく使琉球録にある名前を使っていた。大正になってから、黄尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」などと変更したが、航海現場が一片の通達で変わるものではない。なかなか定着せず、戦後にまで中国名の表記を使う地図が多かった。1995年に衆議院予算委員会に提出した「防衛庁資料」にまで、中国名が使われているのは驚きだ。歴史的経過から言えば、尖閣は確実に中国領である。

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----------------------[追記]---------------------
けち付けもいろいろあるもので、冊封使の航海に関して「航路を熟知していた琉球人が操船していたことを示す」などという珍論まであるから驚く。

5本マストということは、明国では、横風を受けて、ある程度風上にも航行できる卓越した航海術・造船術が確立していたことを示している。順風でしか航行できない帆掛け舟の場合、必然的に一本マストになる。日本などでは、とうとう明治になるまで、一本マストの帆掛け舟から脱却できなかった。5本マストは、航行原理が違うのだ。もちろん琉球にこのような技術はなく、操船などできるはずもない。大型船の建造ということも明国にしかできなかった。

航路も与那国、宮古などをたどる島伝いではなく、どこにも寄港せず、昼夜兼行で最短距離をで直線的に航行するものだ。天文航法を用いていたことがわかる。尖閣なども一応目標物にしているが、それに頼ってはいない。日本などにはなかった高度な航海術だ。鄭和が率いる明の大船団はインド・アフリカにまで進出していたくらいだ。水先案内が必要だったのは、琉球の港付近だけだっただろう。

琉球の人たちは海に面して、水泳も達者だったし、魯を漕いだり、潮目を見たりするのは得意だったが、それと造船術や航海術とはちがう。薩摩との交流を見ても、特に薩摩が琉球人に頼った様子は無い。琉球に船舶技術があったとしても、日本と、同じ程度以上ではありえない。明国よりかなり遅れている。東南アジアにまで出かけた琉球人もいるにはいたが、海洋国家として交易で潤ったという事実の裏づけはない。明治政府が沖縄を併合した時も、沖縄の船舶技術などどこにも見出せなかった。

しかし、陳侃が書き残した出発の経緯では琉球人の船乗りが出てくる。琉球からの朝貢は隔年あるいは年一回だが、明からの冊封使派遣はこのときも、34年ぶりだった。当然、水先不案内となるが、琉球側から迎えが来た。これを率いていた蔡廷美という琉球の長官が水先案内人1名と船乗り30名を連れて来て、彼らが冊封船に乗り込んだ。大船の昼夜兼行操船には150人以上も必要だから手助けでしかないが、琉球にはある程度の航海技術があったことになる。毎年の朝貢船も運行していたはずだ。

琉球の長官ではあるが、蔡廷美というのは琉球の名前ではない。実は中国人なのである。琉球に独自の造船技術や航海術の発達はなく、朝貢船は中国で作られていたのだが、朝貢の便のために明の洪武帝や永楽帝が琉球王国に航海技術者を派遣し、琉球には中国語を話す集団が常駐していた。この人たちが、独自の中国人村を形成し、何代にも渡って朝貢船の運行をしていたのである。琉球人というより、中国の移民と言うべきかもしれない。陳侃を助けたのはこうした琉球在住中国人だったのである。夷人という表現もあるから、下働きの水夫は中国語を話せない琉球人だったかも知れない。

この移民を通じて、琉球で航海術や造船術が発達することは無かったようだ。以降の冊封船では、琉球人の助けを借りた記録はない。1600年代には琉球化してしまい、中国語も話せなくなり、航海もできなくなったので、朝貢がうまくいかないと言う書簡を中山王尚寧が出している。朝鮮への使節も、独自に航海できず、博多の商人に委託するといったことをしていた記録がある。琉球化してしまった派遣中国人たちは、航海とは違う分野で活躍するようになり、久米36姓と呼ばれる琉球王国の中で、有力な地位を占める家系となっていった。



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コメント 3

いしゐのぞむ

陳侃は琉球國からの公務員によって案内されたと記録してゐます。日本にとって都合の惡い史料ではなく、チャイナにとって都合の惡い史料です。その他多數の漢文史料について、詳細は新刊拙著『尖閣反駁マニュアル百題』(集廣舍刊、amazon等有り)及び鄙撰論文などをご覽下さい。明治二十八年より以前、尖閣に於いてチャイナは完全にゼロです。こちらのリンクの
http://www.shukousha.com/information/news/3172/
寄稿「清國の「釣魚臺」は尖閣ではなかった」も參考になるので自薦します。
by いしゐのぞむ (2014-09-14 13:36) 

いしゐのぞむ

西暦1534年に陳侃が釣魚嶼海域を渡航したのは、琉球航海士の案内に從ったのだと自身で記録してます。奧原敏雄氏が最初に論及した有名な記録です。最古の釣魚嶼の記録が琉球人による水先案内ですから、釣魚嶼の發見命名者は當然琉球人だといふことに
なります。
日本の史料は林子平が最古ではなく、寛永年間の航路を記録した「寛文航海書」が最古です。その中のレイシ島(尖閣)は、長崎・與那國間の南北航路で經由する島です。詳細は『尖閣反駁マニュアル百題』、集廣舍。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986
しかも林子平圖は、臺灣島と尖閣とを別色で塗ってますので、臺灣附屬島嶼説を否定してゐるのです。
http://senkaku.blog.jp/archives/2258655.html
そもそも記録者が權利を有するといふのは、アメリカインディアンを記録したのがスペイン人イギリス人だから、アメリカはスペインイギリスの物だといふ論理です。先住民族差別です。

by いしゐのぞむ (2015-01-10 14:18) 

kodomo

コメントを頂いたのに気が付かず、承認が遅れてすみません。意見を頂いたり、考えなおしたりしてブログを書き換えていますので、内容は現在私が考えていることを表していると思ってください。

琉球に独自の航海術の発達はなく、冊封使を運んだのは明の航海術であったと理解しています。この事は、追記の部分に書いてありますのでよくお読みください。

林子平は、台湾が中国本土と異なることや、小笠原に日本が実効支配を確立出来ていないことなどをよく検討した彩色をしています。尖閣を台湾とも琉球とも同じでなく、中国本土と同じ色にしたのは当時の見識として正しい判断だったと思います。
by kodomo (2015-09-22 10:33) 

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